図書館司書メル・アボットと図書迷宮《ビブリオラビリンス》
藤咲メア
第1話 赤毛の少年
リヴレ王国。それは、メルス大陸の一端に居を構える、歴史と伝統に彩られた美しい小国である。穏やかな気候と豊かな自然に恵まれたこの国は、聡明な王のもと善政が敷かれ、大陸一民に優しい国ともよばれる。
他にこの国が誇るものは、長大な歴史と、数々の偉大な賢者、学者、魔法使いが紡いできた叡智である。それらはすべて書物の形態にまとめられ、各地の図書館に収められている。そして最も膨大な蔵書数を誇るのが、王都ロワペールにあるリヴレ王国王立図書館だった。
王立の名を冠するだけあって、建物の外観は大聖堂のような荘厳さを纏い、訪れる人々を圧倒させる。しかし、それは威圧するようなものではない。人々に感嘆と畏敬の念を抱かせるような、美しく堂々とした佇まいだった。
さらに他国の王立図書館と違い、この国の王立図書館は王族などの限られた人々だけでなく、すべての民にその門戸を開いていた。王から図書館に与えられた三つの役目は、書物の保存、研究、普及。この三つ目の普及という役割が、すべての民に門戸を開く由縁であった。
そして我らが主人公は、この王立図書館で図書館司書として働く、19歳の少女である。
*
図書館の閉館時間が差し迫ったある日の夕方のこと。リヴレ王国王立図書館に勤務する図書館司書メル・アボットは、館内にまだ来館客が残っていないかを一人見回っていた。
壁にはめ込まれた大きなガラス窓からは、オレンジ色に染まった沈みゆく太陽の光が館内に差し込み、屹立する数多の本棚がその光と対比するようにして、床に暗い影を投げ落としている。その光と影の美しいコントラストに彩られた館内を、メルは靴音高く響かせながら歩いていた。
彼女が、山脈のように連なる背の高い本棚の森を抜けて、机や椅子、ソファの置かれた読書スペースに差し掛かった時だった。どこからか気持ち良さそうな寝息が聞こえてきたのは。
小首を傾げ、メルが寝息の聞こえて来る方向へ検討をつけて歩いていくと、館内に設置された革張りの茶色いソファの上で、誰かが仰向けになって眠っている姿が見えてきた。読書をしている途中でうっかり眠りこけてしまったのだろうか。そう思いながらメルが近づいていくと、眠っているのは自分と同い年か、一つか二つ下くらいの少年であることがわかった。
胸の上で開きっ放しになった本を置いたまま、少年は気持ち良さそうに寝入ってしまっている。少年の額に溢れた燃えるような赤毛が、彼の規則正しい寝息と共に揺れ、そばかすの浮いた顔は、なんだかイタズラ好きなわんぱく小僧のもののように見える。
メルは、こんなに気持ち良さそうに眠っている人を起こすことに気の毒さを感じながらも、しゃがみこんで「あの」と声をかけてみた。
「もう閉館時間ですので、出てもらわないと困ります」
しかし、声をかけるだけでは全く効き目がなかった。メルの言葉などどこ吹く風。赤毛の少年は相変わらず羨ましくなるほど心地よい夢の中だった。
メルはため息をつくと、今度は少年の肩を控えめにゆすってみた。
「あの、すみません。起きてください」
すると少年はわずかに眉をしかめ、メルの方に向かって寝返りを打ってきた。胸の上に置かれていた本が、その動きで床へ滑り落ちてくる。メルは慌ててそれを床に墜落する前に受け止めた。
起きただろうかと、メルは本を小脇に抱えて少年の顔を再び覗き込んでみる。
相変わらず寝たままだった。
メルはさっきよりも力を込めて、少し乱暴に少年の肩を揺すった。そして、耳元で声をはりあげる。
「あの、起きてください!一晩図書館に閉じ込められたいんですか!」
少年は、何やら口の中でモゴモゴと呟く。ただの寝言のようだ。
メルは立ち上がって、館内に設置されている時計を見やった。閉館時間は午後5時。時計の長針は、もう「12」の部分を今にも指そうとしている。今日は、メルが鍵を閉める当番。この少年が起きてくれないと、図書館を閉めようにも閉められない。したがってメルも帰るに帰れない。早く帰りたいというのに。
しびれを切らしたメルは、最後の手段を使うことにした。さっき床に墜落する前に受け止めた本に、一言「ごめんなさい」と告げてから、その本の角を少年の額へゴツンとぶつける。
「いたっ!?」
これにはさすがに少年も目を覚ました。涙目になって額をこすりながら、ソファから飛び起きる。それから少年は、自分のすぐそばに立つメルと、その手に握られた本を交互に見やった。
「ああ、えっと……」
自分の置かれた状況がいまいちわかっていない様子の少年に、メルは事務的な口調で告げる。
「もう閉館時間ですので、図書館から出てください」
メルに言われ、少年は窓から差し込む夕陽を一瞥した。
「もうそんな時間か……」
呟くと、少年はソファから足を下ろして立ち上がった。それから、人懐っこい顔でメルに笑いかける。
「すまんね。司書さん。迷惑かけちゃったみたいで。すぐ出て行きますから」
そう言って、少年はその場を立ち去ろうとした。しかし、出口のある方向とは真逆の方へ進みだしたので、メルは慌てて引き止めた。
「あの。出口はあちらです」
メルに正しい方向を指差され、少年は「ああ」と体の向きを変える。
「寝起きで頭がぼうっとしてたもんで。それじゃあ」
メルに礼儀正しく会釈をすると、少年は今度こそ出口のある方へ向かって歩き出した。夕陽に照らされ、燃立つように輝いて見える赤毛頭を、メルは静かに見送った。
心配だったので、少年がちゃんと図書館から出たことを確認してから、メルは図書館の戸締りにかかった。と言っても、メルが錠をかけるのは図書館の正面入り口にあたる大きな扉だけだ。他の細かな戸は、すでに他の職員が鍵をかけてくれている。
外に出て扉を閉め、しっかり錠をかけると、メルは一仕事終えたとばかりに息を吐き出した。あとは家路につくだけである。
メルが空を見上げると、まだ太陽は西の端に顔を覗かせていた。それでも気の早い星が幾つか、空で輝き始めている。街にはもう街灯がポツポツと灯り始め、メルのように仕事を終えて帰路につく人々を、温かな光で包み込んでいる。
仕事用のカバンを肩にかけなおし、メルも家路につく人々の中へ溶け込む。先ほどの赤毛の少年もその中にいるだろうかとふと見回してみたが、もう彼の姿はどこにもなかった。だがその代わりに、メルの目の前をそそくさと野良猫が一匹通り過ぎていった。彼、あるいは彼女も、心地よい住処へ帰る途中なのかもしれない。メルも家へ向かって歩き出した。家では、祖母が暖かい料理を作って、メルを心待ちにして待っていることだろう。
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