第2話 落ちこぼれ

「ない・・・・・・ない・・・・・・」


 何度ボードの端から端に視線を往復させようとも、そこに目当ての数字を見つけることはできなかった。

 ベニヤ板を打ち付けただけの簡単に作られた掲示板には、映画ポスター位の大きさの白い紙が二枚貼ってある。

 その紙の上部には大きく「尚武高校三次募集合格者」と書かれてあり、その下には遠くからでも見えるよう、マジックを使い大きく太く手書きで書かれた数字が規則正しく並んでいる。

 その数字は1から順に始まり26で終わっていた。だがその中に「13」という数字はなかった。前後の「12」と「14」はあったのに。

 全身の力が抜け、僕はその場でがっくりとひざをつき両手が地面に触れた。

 見ようという意思もないのに視線は地面に固定されている。

 そのコンクリート製の地面には水たまりができていて、今も水分が次々と供給されている。 いつの間に雨が降り出したのだろう。今日は一日晴天で雨の降る確率は0%だということは朝の天気予報で確認してきている。だから傘を持ってきていない。

 その水たまりへの水分の供給源は僕の両目だった。止めようと思っても止まらない、立ち上がろうとしても両足に力が入らない。

 同じように掲示板を確認しに来た人達が小さな声で「あったあった」と言い、その場を離れていく。

 掲示板の前を四つん這いで占拠している僕のことはだれも気にしている様子はない。一目で落ちたとわかる人間に関わり合いたくないのか声をかける人はいない。それとも僕は透明人間になってしまったのだろうか、それだったらどんなに良いだろう。だれかと目を合わせることができない。周りは僕をどんな目で見ているのか顔を上げて確認することが恐ろしい。皆が僕を見下ろして嘲笑しているのではないかと想像した。本当に笑い声が渦巻いて聞こえてくる。

 今、僕がいるのは尚武高校の玄関前に臨時に敷設された掲示板の前だった。この掲示板には先日この学校で行われた三次募集の受験結果が張り出されていた。

 たった今僕の十五歳の高校受験は終わった、それも最悪な結果で。今年の一月から私立公立あわせて十二校を受験し、全て不合格となった。最後の望みをかけて地域の評判が悪く、ここ数年定員割れを起こしているこの学校の三次募集を受験した。少子化で全員が高校、大学に入れると言われている時代に、僕は高校浪人が決定した。

 膝をガクガクさせながら何とか立ち上がると、自分の顔写真が貼ってある受験票をとりだした。最後の力を振り絞り「受験番号十三番 武川京矢」そう書いてある受験票と掲示板の間に視線を何度も往復させるが、やはり見落としではない。

 足は力なく動き校門へと向かう。不合格になった以上もうここには用はない。

 そうなると一刻も早くこの場から逃げ出したかった。皆が僕を見て笑っているように思える。事務室に立ち寄り、掲示板に不備はなかったかと問いただす勇気も無い。

 何かに追い立てられるように外に出て、駅までの道を進む。その道すがら尚武高校の生徒に何度もすれ違った。今はすでに春休み、クラブ活動のために登校するのだろうか。自分にはその青春を謳歌している姿がまぶしく見え、自然と彼らから距離をとってしまう。

 歩みが橋の上で勝手に止まる。見下ろすと静かな川の流れが目に入った。

 水が揺れ、陽光がきらきらと反射している様は、まるでそこに異世界の入り口があるようだ。 違う世界が自分を誘っているように見えた。このまま家に帰っても家族からの嫌みと侮蔑された視線にさらされるだけだ。

 帰りたくない。

 両手が欄干を握る。先ほどまで根が生えたかのように重かった足が軽くなった、今なら空も飛べそうだ。両手に力を込め上半身を向こう側へ滑らせようとした。

 トントン――

 そのとき何者かが僕の右肩を叩かれ意識が強制的にこちら側に戻された。両手に込められた力を抜き、振り返ると僕より小柄の、七十を超えただろうに見える男性の老人が顔中に皺を作り、その笑顔をこちらに向けていた。


「余計なことだったかもしれないけど迎えに来たよ、京矢」


 その男性の笑顔を見た途端再び僕の目に再び涙があふれた。


「おじいちゃん!」


 僕はかれ彼に抱きつき、声を上げて泣いた。


「おお、よしよし」


 祖父は僕の背中に手を回し優しく抱きしめた。


「僕、駄目だった! 駄目だった!」


 僕が今抱きついている老人の名は武川国正、僕のこの世のたった一人の味方である。曾祖父から会社を受け継ぎそれをさらに発展させ、六十歳で社長の座を息子に、つまり僕の父に引き継いだ。それからは名前だけを会社顧問として残してのんびりと好きな絵を描いて暮らしている。


「いいんだよ、いいんだよ。さぁ帰ろう、春とは言え外はまだ寒い」


 黒塗りの高級国産車が道ばたに止まっていた。僕と祖父が近づくと、立ったまま待機していた運転手が黙って後ろの歩道側のドアを開けた。その車に二人で乗り込んで家に帰った。車の中で祖父は僕の肩を抱いて何も言わなかった。

 車は家の玄関に横付けして止めた。乗ったときと同じように運転手が無言でドアを開き、僕と祖父は車を降りた。車を降りた僕の目の前に、近代的なデザインの大きくて広い二階建ての家がそびえ立つ。十五年暮らしてきた我が家なのに威圧感を覚え足がすくみ、玄関にはいることができない。祖父が優しく背中を押しようやく玄関に入ることができた。


「お帰りなさいませ。大旦那様、京矢お坊ちゃん」

 玄関に入るとメイドが恭しく頭を下げた。今の僕にはお坊ちゃんと呼ばれるのが気恥ずかしい。


「ただいま、高橋さん。夕子さんはいるかい?」


 祖父は使用人に対しても礼を尽くす。彼女たちをその辺の石ころのように扱う父母や兄とは大分違う。


「奥様はリビングにいらっしゃいます」


 僕が生まれる前からこの家で働いているメイドの高橋さんは、案内するように先頭を歩き、リビングに到達すると部屋のドアをノックした。


「誰?」


 ドアをノックすると部屋の中から母の冷徹な声が聞こえる。


「高橋です、大旦那様と京矢お坊ちゃんがお帰りになりました」


 高橋さんがドアの向こう側にいるであろう母に話しかける。


「入ってもらって」


「失礼します」


 高橋さんがドアを開けて、リビングの中央に向けて一礼する。

 続いて祖父と僕が部屋に入った。

 母はソファーに座り、ティーカップを持ったままの姿勢で僕と祖父を一瞥した。


「おはよう、夕子さん」


 にこやかに祖父は母に挨拶をする。そこで母はようやくティーカップをテーブルの上の受け皿に置いた。


「おはようございます、お義父さま。何のごようでしょう?」


「京矢が報告したいことがあるそうだ。聞いてくれんか」


 祖父はそう言って体の位置をずらした。その背中に隠れるように立っていた僕は、母の冷たい視線にさらされた。


「あの・・・・・・」


「なぁに、京矢? 受験の結果はどうだったのかしら? 今日見に行ってきたのでしょう」


 僕は一旦つばを飲み込んだ。


「・・・・・・駄目でした」


 僕がそれだけいうと、母は片手で顔を隠すようにこめかみを押さえ、ため息をついた。


「あなたには、なにも高望みはしてなかったわ。ただ高校に行ってくれたらよかったの。そのために優秀な家庭教師を何人もつけたし、受験する高校には事前に多額の寄付金まで振り込んでおいた。はぁ、見事に時間とお金を無駄にしてくれたわね」


「まぁまぁ、夕子さん、京矢だって努力しての結果だったんだから。あまり呵らんでやってくれ」


「しかしお義父さん。今時高校受験に失敗するなんて・・・・・・むしろ努力しないでわざと落ちたと言ってくれた方がましですわ」


 壁際に待機していた高橋さんが口を開いた。


「お二人の分のお茶をお持ちします」


 僕も祖父もこの部屋に入ってから立ったままだ。


「二人ともお茶はいらないそうよ」 


 母は僕と祖父の意思を確認しないでそう言った。


「うん、高橋さん、もうお暇するからわしたちの分はいらないよ。では京矢、失礼しようかな」


 母への用件は受験の報告だけだったので、もう用はない。もし祖父が付き合ってくれなかったら、僕は母からもっと酷い罵詈雑言を浴びせられていただろう。


「失礼します」


 祖父に続き僕も母に背を向けた。


「京矢、あなたこれからどうするの。就職するの? あなたのお父さんの会社でも中卒は雇っていないわよ」


「・・・・・・来年も受験させて下さい」


 そう言い残して僕はリビングを後にした。


「京矢、あとでわしの部屋に来なさい」


 廊下に出ると祖父がうつむいている僕に肩に手を置き言った。

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