第4話 高校浪人

 あまりにもはっきりした変な夢を見たせいか、目がさえてしまった。


「やはりこれの影響だろうな」


夢に出てきた少年は武川京ノ助と名乗っていた。

 僕は左手を見た。そこには夕べはめたまま寝たひいじいちゃんの形見の指輪が朝日を受けて黒い反射光を発している。

 時計を見ると九時を過ぎていた。世間の学校の多くは春休みを迎えている。僕自身も中学の卒業式を終えているので学校にはいかない。しかし春休みを満喫できるのは学生の特権なので、受験に失敗した僕にはその資格がない。今の僕の肩書きは浪人生または無職ということになる。

 ベッドを抜けて自分の身分を無職ではなく、浪人生に確定させるために行動を開始した。

 まずは洗面所で顔を洗い、朝食を食べに食堂へ向かうとちょうどそこから出てくる母と出くわした。


「こんな時間まで寝てられるなんてけっこうなご身分ね」


 出会い頭に嫌みを言われてしまう。


「おはようございます。お母様」


 と、僕は頭を下げたが母はそれ以上何も言わず横を通り抜け廊下の奥に消えた。

 母を見送った僕はそろそろと半分程食堂の扉を開けると食事担当のメイドをしている田中さんの姿が見えた。


「田中さん、誰かいる?」


 小声で話かけた。今は父や兄と遭遇したくない。田中さんはこちらを見て普通の声で言った。


「皆さんすでに食事が終わって出かけられました」


 その答えにほっとして、ドアを全開にして食堂に入った。

 我が家は全員でそろって食事をすることはなく、銘々が好きな時間に食堂に来て食事をする。

 いつもの席に座ると何も言わず、田中さんが食事を運んできた。朝の食事にそんなレパートリーはない。今日の朝食はご飯にハムエッグ、サラダ、味噌汁だった。納豆は父が嫌いなため食卓に上ったことはない。食べながら部屋の隅に待機している田中さんにふと疑問を口にした。


「みんな出掛けたとさっき言ったけど、おじいちゃんも?」


 僕の問いに田中さんは直立不動の姿勢で答えた。


「はい、大旦那様も今日はかかりつけの病院に出かけられました」


「そっか、ありがとう」


 そういうと田中さんは頭を軽く下げた。

 祖父には曾祖父の話をもっと聞きたかったのだけれど帰ってきてからにしよう。


「僕も食事が終わったら出かけます」


「かしこまりました、奥様には伝えておきます」


 再び田中さんは頭を下げた。


 食事を終え、身支度を整えると僕は家を出た。

 世間体を整えるために予備校に通うための資料集めをする。とりあえず最寄りの駅前にある予備校に向かった。春休み講習だろうか、入り口には僕と同じ年代の子が出入りしていた。

 建物の中に入ると受付の前にはこの予備校のパンフレットが並んでいる。いくつか手に取ってみると時期的に大学浪人のための、日中に授業のあるコースのものが目立つ。高校浪人のための日中のコースを探したがやはり見当たらない。おそらく高校浪人などする人など僕ぐらいなのだろう。だからそれがもしあって受講できたとしても、広い教室に僕一人が授業を受けることになるかもしれない。


「高校受験用の講義をお探しですか?」


 受付のお姉さんが席を離れ、笑顔で僕のそばに寄ってきた。


「ええ、まあ」


 僕は曖昧に返事をした。別に嘘はついていない、だがお姉さんはおそらく僕をこの春からの中学三年生と勘違いしただろう。


「それでしたら、こちらが学校が終わったあとに通うコースです。こちらは週末の土日のみのもの。他に苦手な教科だけを受けることもできます」


 お姉さんは僕にいくつかのパンフレットを渡しながら軽く説明をし、最後にそれらを大きな封筒にまとめて入れてくれた。

 僕はお姉さんの笑顔に見送られて予備校を後にした。


 ずっしりと重い予備校の名前と住所が入った封筒を小脇に抱えて家路を歩く。二、三の予備校を見て回るつもりだったが、一校で思った以上の荷物を持たされてしまったので一旦家に帰ることにした。

 予備校に通うにしてもお金は親に出してもらうしかない。この一年間は親が僕のために家庭教師を雇ってくれた。しかし、親が探してきた東大卒で各教科のスペシャリスト三人がマンツーマンで教えてくれたが、僕の成績は振るわず何度も彼らのため息を聞いた。密室に二人きりで、彼らから受けるプレッシャーは猛獣の檻に入れられた気分だった。いつ襲いかかってこられるかビクビクしていた。そんな僕のために親はお金を出してくれるだろうか。


 自宅への道を歩いていると道ばたに女の子が泣いているのが目に入った。来るときにはいなかった。まだ小学生には見えない、親とはぐれたのだろうか。


「どうしたの? 迷子かな?」


 そう聞くと女の子は泣きながらまっすぐ上を指さした。

 指した方向にはまだ春先で、葉をつけていない電信柱くらいの高さの木がある。その木のほぼてっぺんに、赤い風船が引っかかっていた。手に持つための糸が細い枝に絡まり、風にそよいでいる。今にも空に飛び立ちそうだ。


「あの赤い風船は君の物かい?」


 と聞くと女の子は黙って首を縦に動かした。

 取ってきてあげたいけれど木登りは苦手だ。では何が得意なのかと聞かれたら困るけれど。僕はまずこの子の親を探した。しかし周りには大人はいない、近所に住んでいる子なのだろうか。


「よし、お兄さんがとってきてあげるよ。だから泣くのはおやめよ」


 なぜか、女の子の頭に手を置き自然とそんな言葉が口から出た。なんとなく良いことをしたい気分だった。

 木の根元に予備校のパンフレット入りの封筒を置き、準備運動代わりに肩をぐるぐると回してから、まずは木の幹に手をかけた。幸い枝の数が多いのでつかむところに不自由はしない。ただ木の幹は太いが枝は細い。足場となる枝が折れないように慎重にのぼった。

 しばらくのぼると頬に風を感じるようになった。風に冷やされ冷静になったせいで自分は高いところが苦手なのを思い出した。ほんと、僕は苦手なことが多いな。一休みして下を見ると女の子が心配そうな顔で見上げていた。もう泣いてはいない。僕は再び顔を上に向けると登り始めた。上に行く程木の幹は細くなり頼りなくなっていく。ようやく木のてっぺん付近までのぼることができた。しかし、風船は枝の端の方に引っかかっている、木の幹を抱えている今の状態では手を伸ばしても届かない。木の幹から手を離し、一本の枝に両足を預け、そろそろと横に進んだ。ギリギリまで両手を横に広げ、風船の糸をつかんだ。


「やった!」


 ポキリ。その瞬間軽く音がして僕は重力から解放された。足場となっていた枝が折れたのだ。

 とっさに目の前の枝をつかんだが、僕の体を支えることができず簡単に折れてしまう。そのとき、せっかくつかんだ風船の糸を僕は離してしまった。自由を得たそれは僕の体とは反対に天へと遠ざかっていく。

 本当、僕って何をやっても駄目なのだな。僕が落ちて怪我をしたところなんかを見たら女の子は強いショックを受けるだろう。余計なことなどしなければ良かった。

 全てを諦めて目をつぶり体の力を抜き、やがて僕の体を襲うであろう強い衝撃にそなえた。しかし、それはいつまでたっても来なかった。

 目をそうっと開けると暗くて何も見えない。ただ落ちていることだけはわかる。 僕の体は暗いトンネルの中を、真っ逆さまにいつまでもいつまでも落ち続けた。

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