筝譜
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むせかえるような春が過ぎれば、緑あふれる夏がやってくる。
古謝は筝の弾き方をおぼえ、その魅力に夢中になっていた。かつて三味線が古謝の手足の延長線上にあったように、この筝という楽器もついに思うままとなった。
曲の楽しさに浮かれる古謝とは反対に、蓮は物憂く沈みがちになっていた。今日も蓮は木棚に麻袋をいっぱいに並べ、ほくそ笑んでいる。
「もうこれしかない。これしか」
「何してるの?」
「うるさい、あっち行ってろ」
蓮は火薬を大量に集めていた。柘榴帝に近づく隙がないと見るや、彼のいる建物ごと爆破しようと考えている。怪しげな武器や毒草、呪術にまで手をそめた蓮の木棚は異様なもので満ち、なりふり構わぬ様相だ。先の宴で失敗した蓮にはもう後がない、多少強引な手でも使おうと、なかばやけになっている。
古謝はそっと宮を出た。
蓮が柘榴帝のことを嫌い殺そうとしているのは知っていた。けれど関わる気はまったくなかった。なにか言って聞くようでもないし、いらぬ面倒に巻きこまれたくない。古謝には他にすべきことがあった。
夏の日差しに視界がぶれ、古謝は目を擦りながら歩いていく。近ごろ病のせいで目が霞むのだ。残された命の猶予は三年、うち数か月はすでに過ぎてしまった。この不治の病は内から外から臓器が腐り使えなくなる惨たらしいものだ。その初期症状に視力の喪失がある。古謝は目が見えなくなる前に筝譜をできる限り会得するつもりでいた。
楽舎へ入ると、難しい顔で書類を眺めていた楽人の長・
「古謝。『七夕の会』の準備はいいのか?」
「うん、大丈夫だよー」
「そうか。お前ほどの腕なら問題なかろうが、風虎もいなくなってしまったのだ。なにかあれば言え」
「ありがとー」
口の端で笑う
楽者の長たる球磨羅楽人には悩みがつきない。先の選抜で楽人たちの数は極端に減ってしまったのに、演奏の回数は以前と変わらない。満足な演奏も手配できかねるところへ倭花菜から書状が寄越されたのだ。次の「七夕の会」に関する要求で、球磨羅楽人は朝からずっと頭を悩ませている。
「無茶がすぎる」
倭花菜は演奏する曲をすべて自分好みに指定してきた。歌を主体とする曲ばかり、いずれも伴奏に多量の楽人を要するものだ。中には弦楽五十人奏といって、筝や三味線の名手を五十人贅沢に並べて使う大胆不敵な曲まである。楽人が豊富にいたときですらこんな大曲、演奏できるかわからない。
球磨羅楽人は忙しい仕事の合間をぬい、この難問をなんとかしなければならない。倭花菜は今や天帝の寵妃、その命令に真っ向から逆らえない。宥めすかし説得して他の曲で満足してもらう他ないだろう。
誰より忙しく頭を抱える球磨羅楽人は、だから古謝が楽舎へ来ていつも倉庫にこもり、譜を眺めるのを黙認していた。本当は筝譜を直接に見せるのはよくない、決まりに反するのだが、それどころではなかったのだ。今の後宮で筝に一番長けているのは古謝だし、仕方なかろうとも思う。演奏の腕をあげた古謝はなみいる楽人よりも響く音を奏でるようになっていた。風虎が楽舎から消えてしまった今、誰も筝のことでは古謝を止められはしない。
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