腐爛の夏

 伽をすませた倭花菜は別格の存在となった。

 天帝に特定の妻はおらず、後宮の者すべてがつれ添いだ。即位したばかりの柘榴帝がはじめて伽に選んだことで、倭花菜は帝の一番のお気に入りと目された。すると彼女は後宮でやりたい放題をはじめた。そのあおりを真っ先に受けたのは、以前から倭花菜に目の敵にされていた風虎だ。

 宴からほどなくして、風虎は古謝の宮を訪れていた。


「儂は楽人の位を剥奪された。これからはおぬしらにも会えん」


 風虎は楽人のかわりに「水番みずばん」の仕事につくと告げた。


「水番って?」


 古謝の問いに風虎は説明を拒んだ。

 水番とは後宮でも一、二を争うきつい肉体労働だ。女宮、男宮のすべてを朝から順に回り、牛を引きながら何往復も一日中水を運ぶ。貴人には似つかわしくない荒業なので、軽微な罰を犯したものの苦役に近い仕事とされていた。高位の楽人だった風虎がすることではない。けれどいまや倭花菜は権勢ゆるぎなく、美蛾娘と並び立つその命令は絶対だ。

 風虎は「殺されなかっただけマシ」と己に言い聞かせて二人に挨拶にきたのだった。


「お前も重々気をつけるのだぞ。蓮はどうした?」

 いつもは古謝より先に出迎えてくれる蓮の姿がみえない。しっかり者で礼節を重んじる蓮にこそ、風虎は危なっかしい古謝のことを頼もうと思っていた。


「それがー、いま大変なんだよ」


 手を引かれ案内された部屋の前で風虎はぎょっとする。床一面に真っ白な花が落ちていた。この独特の甘い香りは、――白粉に使われる闘鶏花とうけいかだ。


「これは……」

「倭花菜に集めろと言われました。明日の演奏会に持ってくるようにと」


 蓮がおびただしい白花のなかに座り、ものすごい形相で花をむしり答える。取った花を竹籠へ一心に集めている。


「待て。演奏会だと?」


 風虎はそんな話は聞いていなかった。後宮で行われる演奏会はすべて楽舎の管轄であり、風虎の耳にも入るはずなのだ。非公式でも楽人を使うなら楽舎へ報告をあげるのが決まりだった。


「倭花菜ですよ」


 蓮が花を手荒くむしり言う。


「俺と古謝になにか曲を披露しろと。この花は、白粉に使うからその時にもってこいと言われました」

「なんと」


 風虎は唸ってしまう。

 蓮と古謝は天帝に認められた楽人で、倭花菜とは同期だ。それを小間使いのように扱い、あまつさえ楽舎に断りなく演奏させるなどあってはならない。


「それでお主ら、言われた通りにしてやるつもりか?」


 蓮の横で花むしりを再開した古謝は、手を止めるとにっこり笑った。


「俺は構わないよ。ずっと筝をひいてたい」

「む……」

「行くしかないでしょう。逆らえばどうなるか。今はおとなしく言うことを聞きます」


 冷たく失笑した蓮は眼光するどく花をむしり続けている。芳香みずみずしい白花を親の仇のように容赦なく引きちぎる様は、やけになっているようにも見えた。

 風虎は心配になってきた。

 蓮は宴のときから心なしかやつれ、鬼気迫る表情になっている。宴での失態を悔いているのかもしれない。あの日、天帝の前で三人で合奏するはずだった。けれど蓮は龍笛を演奏できなかったのだ。倭花菜が急に曲を変え、黒衣を脱ぎ捨て全裸に近い状態となり、無理やりに場を動転させ支配してしまったせいだ。

 風虎はかける言葉に惑い、部屋の入り口で立ちすくんでいた。

 蓮は誰からも咎められなかったが、楽人にとってあのような失態は心底こたえるものだ。今の思いつめた様子を見るに、何を言っても負担になるだろう。だからそっと古謝を外へ呼び寄せ言い聞かせた。


「お前がしっかりするのだぞ。周りをよく見て、倭花菜には逆らわんようにしろ」

「わかったよー」


 古謝はなんとも頼りない。緩みきったその表情にしかたなく風虎は言葉を重ねた。


「それから、あいつのこともよく見ていてやってくれ」


 思いつめた蓮は今にも自死しかねないように見える。たった一回の失態でそこまで苦しまなくてもいい、楽人であるうちはまた演奏の機会も巡りくる。そう声をかけるのすら躊躇われた。古謝は不思議そうだったがいつも通りに上機嫌だ。


「大丈夫、心配ないよ」


 古謝の頭に不安や憂いは微塵もなさそうだ。


(それがかえって蓮には良い薬かもしれんな)


 どちらにせよ楽人でなくなった風虎には二人を支えてやれない。一抹の不安と心配をかかえながらも、本当に案ずべきは自分の将来だ。

 古謝の宮を出るとき、風虎は満開だった桜が葉桜になったことに気づいた。季節の巡りは早くじきに厳しい暑さが襲いくる。春はひと時の夢――霞がかったあわさを押しやり、後宮に鮮烈な夏が来ようとしていた。




 一方、倭花菜の宮では満開の権勢が今を盛りと花開いていた。毎日各宮から贈り物が届く。高価な翡翠、織絹しょっきんの履物、透かし絹の衣装に宝石の数々――それらを身に纏い粗雑に扱いながら、倭花菜は己の成功に鼻高々だ。


(みながあたくしを崇めている。あたくしに勝る楽人はいない。あたくしがこの後宮を支配している!)


 実家の麗空家れいくうけからも祝いの言葉が届いていた。柘榴帝の寵を得て美蛾娘の権勢を削げたことで、倭花菜の実父は大喜びだ。

 望みのものが手に入り倭花菜は満足だった。すべての人間に敬われ、かしずかれるのが昔からの夢だった。

 同宮のふたり、嵐と菊迷はますます尊大さを増す倭花菜に辟易していたが、倭花菜はそんなこと歯牙にもかけない。

 古謝や蓮を何度も天河に呼びつけ、楽を演奏させては召使いのようにこき使い今日も高笑いする。


「みなが高くてよ、ひざまずきなさい。後宮の者は誰もかも、鎮官も妃嬪ひびんもあの美蛾娘お姉さまですら、このあたくしに跪くのよ!」


 蓮はうんざりとそれを聞き流し、古謝はわけもわからずに遊びだと思っていた。

 天河の楽奏船において、しかし倭花菜のその言を見咎めたものがいた。そばに控えていた鎮官である。そっと場を離れた鎮官は美蛾娘の宮へ赴き、倭花菜の言をそのままに伝えた。話を聞いた美蛾娘は激怒した。


「おのれ小娘!」


 怒りで青ざめた美蛾娘は、報告に来た鎮官の眉間に小刀を投げて殺した。その場にいた他の者たちは震えあがり、美蛾娘とけして目をあわせない。


「今すぐ、倭花菜の宮にいる楽人を連れてくるのじゃ!」


 美蛾娘は怒り狂い、さらなる血肉を悪鬼・羅刹女神らせつにょしんに捧げることを決めた。人を殺せば殺すほど羅刹女神は喜び応えてくれる。


(なんとしても殺す! 殺して、殺してやる! だがその前に)


 まずはその心を弑すのだ。うっすらと笑う美蛾娘の背後に、あらたな血肉の気配を察して羅刹女神の黒影が揺らめいていた。

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