夜、倭花菜は自分の宮でひとり不安をかかえ待っていた。

 天帝が来る。それは寵妃としてとぎをするということだ。

 同宮の嵐や菊迷はすでに別宮へと移動している。だだっ広い空間にひとり待つ間に、震えそうになる己を何度も叱咤しなければならなかった。


「ええい、どうしてあたくしがこんな思いを!」


 倭花菜は天帝の心を見事に射止めたのだ。勝ち誇りこそすれ、不安や恐怖を感じる必要はない、それなのに。

 やがて薫香の気配とともに現れた柘榴帝は、倭花菜の顔をひと目みるや噴き出した。


「すまなかった、美蛾娘に絡まれてね」


 そう笑う御身が部屋を歩くと薫香の匂いがいっそう増した。強力な香を肺いっぱい吸いこまされ、倭花菜は気分が悪くなる。目まいをおぼえふらついたと思ったら、身を支えられてそのまま寝台へと運ばれた。被さってくる柘榴帝を無礼だといなすこともできない。

 全身の力が抜けて体が火照り、心はうわつく。それらすべてが自分の意志ではない、漂う薫香により引き起こされたものだ。

 水色の両目が真上でやさしく笑んでいた。

 とっくりと倭花菜の顔を眺めていたその目が、面白がるような色を帯びた。


「君は、俺のことが嫌いかな?」

「い、え。そのような」


 出した声はかすれてしまった。いくら唾を飲んでも喉がからからだ。内心は畏怖と恐怖、緊張で溢れかえっていて、そのことにも腹が立っている。それらを引き起こした柘榴帝に負けたような気がしていた。


「じゃぁ、俺に負けるのが嫌なんだ?」


 心をそのまま読んだ柘榴帝が目をすがめる。

 倭花菜は答えられない。その通りだとも違うとも言えない、そもそも声が出ないのだ。


「安心して。俺は人じゃない、君は負けるわけじゃない」


 そっと顔が近づいてくる。

 今や薫香の匂いは酸素よりも濃い。

 こらきれず目をつむった倭花菜に、柘榴帝は吐息で笑った。


「君は負けるわけじゃない。俺は競うべき相手ではない、報酬そのものだ。わかるだろ?」


 天帝とは人ならざるもの、現世神だ。

 人と人とは争えるが、人と神とは争えない。そもそも勝負にならないのだ。だから人は神を味方につけ、加護を得ようとする。

 現れた柘榴帝はまさに神、快楽をつかさどる化身だった。その触れるすべてに我を失わせるほどの絶頂感をよぶ。後宮で伽の回数のわりには妊娠率が低いのも、過ぎた快楽のせいだと言われている。宮女や妃嬪たちの実に三割が伽のせいで命を落としてしまうのだ。男女関わりなく子を成すことのできる天帝は、人の身の神秘を知りつくしていた。

 拷問に近い快楽を受けながら、倭花菜はそれでもしばらくの間は意識を保っていた。

 世界が回り星が散る。恥や外聞といった理性はもはやない、自分が何をしているのかもわからない。


(負けるわけではない。負けるわけでは――)


 そう自分に言い聞かせ、意識を失う寸前に幻を見た。

 緑の大地と母なる海。国土を覆う澄みきった星空に、数えきれないほどの神々が浮かびみえた。

 天空の神々は酒を手に宴会を開いていた。

 ある者は喧嘩をし、またある者は眠り。下界を眺める神もいた。そのなかにうす紅の衣を纏うひときわ美しい女神を見た。

 話に聞く弁財天女神は、倭花菜と目が合うと優雅に笑んでみせた。


 ――それでよい。


 伽をすませてしまえば倭花菜の立ち位置は盤石となる。美蛾娘に対するための後ろ盾を得たことになる。弁財天女神は倭花菜の成功を祈り、誇り高くあれるようにと権勢を与えようとしていた。今宵、天帝とともにあれることを言祝いでいる。


 ――それでよい。それでよい。


 許された倭花菜は安堵し意識を手放した。

 精神の抵抗をやめてしまえば、天帝との伽はいっそう自然なことだった。天から雨落ち露となる。その雫が庭の葉にたまり空気に霧が出るように自明なことだった。後宮の夜は馥郁ふくいくとした快楽を闇につつみ、ゆっくりと明けていった。

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