悲嘆
場はいよいよ混乱し、天河から人は少なくなる。散り散りに人が去っていくなか、蓮と古謝はその場で茫然としていた。
古謝は恐怖に身を震わせ、蓮の片腕にしがみついている。しがみつかれた蓮は魂を抜かれたように悄然としていた。
「天帝が、死んだ……?」
蓮が憎み生涯をかけて殺そうとしてきた対象が死んだ。それは生きるよすがを失ったに等しい衝撃だ。倒すべき相手がいなければここへ来た意味もない、蓮には生きていくことすら難しくなる。
そんな蓮の肩を叩いたのは困惑した顔の風虎だ。
「お前たちもいったん宮に戻れ。こんな時だ、何があるかわからん。さあ!」
風虎に無理やり押される形で蓮と古謝は与えられた宮へ戻った。古謝は部屋につくなり風虎に飛びつき泣きわめいた。
「こんなこと聞いてなかった! ここは嫌だ、もう帰る!」
「落ちつけ。しだいによっては明日にでも里に帰れるぞ」
風虎の説明によると、天帝が崩御した後の後宮は一度解体されるらしい。それもそのはず、後宮には天帝の愛妾たちがわんさといる。新たな皇子が位を継ぐとき、御手つきの者たちがいるのは不敬だという配慮だ。特別な特技があり高齢な者を除けば、ほとんどの者が天帝崩御とともに郷里へ帰されるのが慣例だ。
「明日には沙汰がくだる。儂はいったん戻るが、今夜は部屋でおとなしくしておれ」
そう言った風虎も疲れと安堵で複雑な顔をしていた。悄然とした蓮とまだ恐怖に震えている古謝を残し、風虎は部屋の戸をしっかり締め去ってしまった。
蓮は部屋に戻ってから微動だにせずその場に立ちすくんでいた。天帝が崩御した今となっては生きるべき理由が蓮にはない。
(こんなことなら楽人選抜の場で復讐を遂げておけばよかった。たとえ失敗していたとしても)
こんな風に怒りの矛先を失い絶望に落とされるくらいなら、そのほうが百倍はましだった。今さら呂家に戻ってどうしろというのか。平穏に暮らすという考えなどとっくの昔に捨てている。蓮は自分の未来には苛烈な死しか残されていないと思っていたのだ。悄然と立ちすくむその腕をふいに古謝が引いた。
「眠れないよー」
蓮は答えるのも億劫で腕を振り払った。子どもじゃあるまいし勝手にすればいい。
古謝は鼻をぐしぐし言わせてめげずに右手にしがみついてくる。振り払うのもやめ無視していたら、泣きながら歌をうたいはじめた。
〽神の代の 光かわらで
げにありがたき大君の 昔に還るまつりごと
「止めろ!」
思わず腕を大きく振り払っていた。
古謝が歌ったのは、国と天帝を称える歌だ。陽気な調の国威発揚曲を、あろうことか悲愴な音階に変え泣きながら歌ったのだ。まるで天帝の死を悼むようなそれに蓮は歯噛みする。
「死んでよかったんだ、あんな奴! 死してなお腹立たしい……!」
つき飛ばされた古謝は冷たい石床にうずくまり、涙に濡れた瞳を向けてくる。
「なんでそんなこと言うんだよー。ひどいよ」
「お前に何がわかる!? 俺がどれほど奴を殺したかったか!」
怒りの衝動を古謝へ向けかけ、すんでのところで蓮はこらえた。古謝に当たり散らしても仕方ない、分かっているのに湧き上がる暴力的な衝動を抑えきれない。もう黙っていてほしかった。あとすこしでも余計なことを言われたら怒りにまかせて自分は何をするか分からない。離れようと身を翻しかけると、古謝がよくわからないことを聞いてきた。
「あの宮女の人と知り合いだったの?」
「なに?」
「だって、死んでよかったって。歌もやめろって」
「それは、ちがう。お前が天帝を称えるような歌を唄うから」
「天帝? そんな歌うたってないよ」
「お前、何言ってる?」
古謝によると、あの歌は棒打ちの刑で死んだ宮女を偲んだものだという。しかしあれは国威発揚曲――そんな歌を哀悼歌に選ぶ奴があるか。人の死を悼む歌ならもっと他にたくさんある。疑問は古謝の答えであっさり氷解した。
「歌の意味なんて知らないよー。俺には音があるだけだ」
古謝には曲の内容がわからないという。曲の意味とこめられた感情が一致せず、だからすばらしい演奏技術なのにその奏でる音色はちぐはぐなものになる。明るい国威発揚曲をああもめそめそと暗く歌ってみせたのは、そういうわけらしい。
蓮は脱力した。話につき合えばつき合うほど疲労がたまる。無視して寝台にもぐりこんだら、なぜか古謝がついてきた。
「こっち来るな」
「ひとりじゃ眠れないよー」
「知るか」
黙って背を向けたら古謝は布団にもぐりこんできた。無駄に豪華な寝台は成人男性が四人は眠れる広さだ。蓮は無視をきめこんだ。冴え切った目で壁を睨んでいると、後ろから泣き声が聞こえてくる。
「うるさい。あっちで泣け」
「っ、だって音が……音が、止まらないよ」
げんなりと蓮は振り返った。いい加減に古謝をなんとかしないと休まるものも休まらない。
寝台の端で震える古謝はずいぶん幼く見えた。楽人選抜に出たのだから歳はそう変わらないはずだが、蓮より五つは下に見える。試しに歳を聞いてみると古謝は「十五」と答えた。十六の蓮とひとつしか違わない。幼さに呆れかえっていると、鼻をぐずつかせて言う。
「棒打ちの音が離れないんだよー。ずっと耳について」
言われて蓮も思い出してしまった。
「やめろ、俺まで気分が悪くなる」
「でもずっと鳴ってて。眠れない」
「なら、歌でも歌えばいいだろう」
投げやりに言った耳にもいまや肉を打つ鈍い音が響きはじめていた。楽人たちにとり音はなにより記憶に残りやすいものだ。鐘の音、牛車の軋み、雨音から人の声まで才ある楽人はすべてを音で記憶してしまう。
古謝は鼻をぐずつかせ歌いはじめた。
〽神の恵みの現れて
国の
国の光は絶えせじな
「だから。その歌は止せって」
また天帝を称える曲だ。
「これしか浮かばないよ」
「なにか他に、もっとあるだろう」
「どんな……わからない。なにも出てこない、怖いよー」
また泣き出した古謝が鬱陶しくて蓮は苛々と息を吸った。自らの声を使う機会など久しくなかった。放たれた蓮の声は濁りなく清らかで、そのことに自身でも驚いていた。
〽いつしかも 招く
我から濡れし露の萩 今さら人は恨みねど 葛の葉風のそよとだに
秋の夜、恋しい男性の帰りを待ちわびる恨み言の曲だ。静かに吐息にのせて奏でるそれは恋心ではなくもっと怨念じみた、恨みつらみが込められたものになった。寂しいというよりは憎しみに詰まり、愛しいほどに殺意をもてあました壮絶な響きだ。
けれどそのおかげで棒打ちの幻音は消え、古謝はほっとしたように目を閉じる。蓮は歌いながら悔しさを吐露していった。
(なぜ勝手に死んだのか。どうせ死ぬなら俺の手で、俺に首を絞められ息絶えればよかったものを)
〽音ずれ絶えて松虫の一人音に鳴く侘しさを
いとど思いを重ねよと月にや声は冴えぬらん
死者は帰ってこない、蓮に殺されるためにけして蘇らない。気づけば蓮は泣いていた。恨みに濡れた言の葉は静かな夜にひびき、ひっそりと消えさる。
〽いざさらば 空行く雁に言問わん
恋しき方に
悲しげな音は古謝が眠りについたあとには誰に聞かれることもなく、蓮自身を慰めた。かそけき響きは後宮の密度の濃い闇に吸いこまれ消えていった。
翌朝、現れた風虎は疲れた顔をしていた。
古謝はようやく帰れると喜び、蓮は消化しきれない恨みを抱えながらも呂家に帰ることを受け入れはじめていた。風虎は一睡もしてない顔でげっそりと言う。
「新帝――柘榴帝はこのまま後宮を使うと仰せだ。お前たちもここに留まれ」
誰ひとりかけることなく安置せよ。それが新たな天帝・柘榴帝からの指示だった。
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