風虎
「何用です?」
風虎が僧院の戸を叩くと、現れたのはまだ年若い僧だった。面長の顔は異様にのっぺりとして、暗闇に白く浮かんでみえる。風虎は思わず出かけた悲鳴をのみこんだ。
「わ、儂は――」
言いかけたのを、僧は手で押しとどめた。鋭い猫目が、風虎を上から下までねめつける。何事か悟ったような顔で、そっと頭を下げてきた。
「どうぞ。御用件はわかりました」
「はあ? いったいなにが──?」
僧は答えない。無言で先へ進む背を、風虎は慌てて追った。「どうぞ」と案内された部屋を覗くと、ちょこんと座る少年がいた。みすぼらしいおかっぱ頭の童が、板間でうつらうつらしている。少年のか細い手には、三味線が握られていた。僧は憎たらしいほど平然と告げた。
「お役人様、王宮の楽人様でいらっしゃいますね」
「お、うむ。なぜそれを?」
「お召し物を見ればわかります。その紅服。王宮で楽をたしなむ者にのみ許される色でありましょう」
風虎は眉をしかめ頷いた。不気味だった。のっぺりとした白い顔の僧が、風虎はいまいち好きになれない。僧はちらりと冷たく少年を見た。
「……となれば。我が僧院で、王宮の楽人様のお役に立てそうなのは、この古謝だけです」
「は? ほ、他の者は? 儂はさっき、町ですばらしい音を聞いたのだ。あれは──」
「三味線の音でございましょう?」
「あ、うむ」
「こんな夜更けに、愚かにも歌い歩くのは古謝だけです」
ありえない。あの三味線の奏者が、これほど若いとは。街で聞いたのは簡単な曲ではなかった、大人でもああも軽やかに、感情をのせ奏でられるかわからない。立ちすくむ風虎をさしおき、僧は少年へとしかめ面を向けた。
「古謝。古謝、起きなさい」
「んー」
「古謝、起きよ! 板間で寝るでない、何度言えばわかるのだ!」
木の数珠飾りで頭を叩かれた古謝は、夢うつつから痛みにのたうっていた。涙目で風虎を見上げると、今気づいたとばかり唖然とする。
「ふわー、俺、毛女郎なんてはじめて見たや」
毛女郎とは、顔が毛むくじゃらの遊女の妖怪だ。たしかに、風虎はぼうぼうの髭面で、体も大きく派手な紅服姿だ。王宮の者を見慣れない子どもには、物の怪のように映るのかもしれない。しかしあまりに無礼だ。風虎が口を開く前に、僧の木数珠が鞭のように飛んだ。
「愚か者! いつも考えてからものを言えと言うておるであろう!」
「えう、痛い、痛いって、ぬり壁師匠!」
「誰がぬり壁か、この粗忽者が!」
容赦なく繰り出される木数珠はもはや凶器だ。硬い小さな玉粒が、少年の額や頬をびしばし打ち、赤いすり傷をつけていく。古謝が木数珠から三味線をかばい丸くなったので、風虎は慌てて僧を止めた。
「待てまて、儂にはまだ信じられん。その子どもが、あの三味線を弾いたというのか?」
ようやく折檻の手をとめた僧は、呼吸を整え古謝に目配せした。
「お見せしなさい」
ぶつくさ言う古謝は、痛んだ手や頬をさすっている。それでも三味線を構えた。軽やかな弦音が放たれた瞬間、部屋を新緑の息吹が洗った。
〽我が宿の池の藤波咲きにけり
山ほととぎすいつか
無邪気で明るいホトトギスの曲だ。目まぐるしい超絶技巧。ほととぎすの声を模した音も手早くとり入れ、速いテンポで弾きあげる。腕は玄人はだしだった。
「これは……すごい。だが、これは?」
明るく楽しい曲なのに、しだいに呪わしく、恨めしい響きになってくる。古謝は木数珠で叩いた僧を恨みがましく睨みつけていた。地を這うような声で歌い、三味線を弾く。
〽今さらに 山へ帰るなほととぎす
声の限りは我が宿に鳴け
声の限りは我が宿に鳴け
外で雷鳴が
「わかった、もういい! 古謝、か。お前の腕が一流なのは、ようくわかった。儂はお前のような楽人を探していたのだ」
ようやく手を止めた古謝は、またぼんやりと眠たげな顔に戻ってしまう。三味線を奏でている時は生き生きと感情をあふれさせていたのに、ひとたび曲が止まると頼りない子供に戻ってしまう。風虎は軽い頭痛をおぼえたが、幼子にもわかるようにと、優しい声を出した。
「あのな。天帝の後宮に、才ある楽人を集めておるのだ。儂はお前を連れて帰りたい。どうだ、正式に国の楽人になってみんか?」
風虎は後宮の楽人だ。国の頂点、現世神である天帝のために、甘美な音色を手配するのが仕事だった。このたび、不幸な事故により後宮に楽人が少なくなってしまった。風虎とその同僚たちは、急いで使えそうな楽人を探していた。
「てんてー、ってなに?」
無邪気な問いにぎょっとする。刹那、僧の木数珠が古謝を攻撃した。風虎は咳払いし、しかたなく声をひそめる。
「天帝とは、
「へぇー」
「……本当にわかっておるのか? 儂もお前も、生きていられるのは天帝のおかげなのだぞ」
語る風虎の声は自然と小さくなってしまう。本来なら天帝のことは、口にするのもはばかられる。現世神である天帝の存在は、それくらい国にとって重大だ。王宮に仕える風虎には、その畏怖が骨の髄まで染みついていた。けれど、古謝は臆する様子もない。わからない。市井の子どもとは、これほどまでに無知だっただろうか。
「楽人様。この古謝を、後宮にお召しになりたいと?」
僧は問うように視線で古謝を見やった。すると古謝はにっこり首を振る。
「嫌だよー。俺は後宮なんぞに行きたくない」
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