誇り

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 その頃、ひと足先に中庭へと案内された倭花菜は場の惨状に青ざめていた。

 最奥に天帝のおわす黒御簾がみえる。玉座を隠す御簾の左、そこに優雅に生足を組み座る美蛾娘の姿があった。この場にいるはずのない悪名高き後宮の主だ。

 こちらに気づき、美蛾娘はゆうるりと笑んだ。


「倭花菜、近こう」


 親しげに呼ばわった美蛾娘の足の先には、大量の死体が転がっていた。豪奢な装いを無惨な血で染めているのは楽人選抜に来ていた少年少女たちだ。楽人のような姿もある。折り重なり無造作に山と積み上げられた死骸からは、血なまぐさい臭いが漂ってくる。唖然と見やる目の前で、黒布で顔を覆った鎮官たちが新たな死体を投げ置いていた。黒髪を豪奢にゆったまだあどけない少女の死体だ――自分よりすこし前にここへ来ていたのだろう、小山に投げ置かれた少女は助けを求めるように虚空に手を伸ばし、舌をたらし死んでいた。


「ほれ、倭花菜。早う来やんか」


 美蛾娘にくつりと笑われ、はじめて見る死体にえづきそうになっていた倭花菜は本来の崩れぬプライドを取り戻した。


(人前で無様ぶざまをさらしたくない!)


 倭花菜の中で矜持とは命より優先すべきものだ。それを汚されるくらいなら潔く死んだほうがいい。

 倭花菜はぐるりを見回した。場の右側にありとあらゆる古今の楽器が揃えられている。

 こと月琴げっきん、龍笛、三味線、胡弓、しょう――決まりではそれらを借りて使ってもいいし、自ら持ちこんだもので音を奏でてもいいことになっている。

 広場の中央には紅白の石畳が絨毯のように伸びて、その両脇に後宮楽人たちが石像のように立っていた。みな震え青ざめた顔で、吐くのをこらえているようだった。倭花菜が見ている間にも一人の楽人がその場にくずれ、足元に吐瀉してしまった。すると控えていた鎮官が彼を即座に引きずっていった。


「あ、お許しをどうかっ」


 粗相をした楽人はすぐに首をはねられ、死体の小山に投げ積まれた。ことの成り行きを理解した倭花菜は思い切り息を吸いこんだ。血煙で汚れた空気は生理的に不快だが、なんとかこらえきる。

(あたくしはこの場の誰より優れてる。あたくしの楽でこの場を満たしてやる!)

 吸いこんだ息をゆるやかに吐き出した。


〽飽かでのみ 花に心を尽くす身の

 思ひあまりに手を折りて 

 数ふる花の品々に

 わきて涼貴妃りゃんきひ 雨凪小町うなこまち


 倭花菜の楽器は声だった。

 朗々と歌いあげる響きは場の空気をひと息に洗いあげた。

 ゆっくりと前へ歩きながら、その天女の声でもって倭花菜は場の全員を釘づけにしていった。血生臭い中庭に新風が吹きこんだようだ。

 耳に心地よい声で歌えば、場は空間ごと倭花菜のものになる。


〽誰が小桜や児桜 桃の媚びある姥桜うばざくら

 われや恋ふらし面影の 花の姿をさきだてて

 幾重分けこしみ吉葉の 雲井に咲ける山桜


 歩みとともに場の血煙がうすれていく。

 恐怖を忘れ驚いている楽人たちに、倭花菜は優しく笑んでみせた。

 居並ぶ楽人たちは軽やかな歌から春の気配を感じ取っていた。


「見える、見えるぞ! 不思議だ、春が見える!」


 音の響きは和やかで耳を蕩かす気品に満ちている。しゃなりと倭花菜の裾衣がすれる石畳は血で汚れていたが、彼女が上を歩きさると残虐の跡はいっさい消えた。その通り過ぎた後から、春まだあどけなき野草やスミレの花が石畳の隙間に萌えだす。まるで春という存在自体が体現されたように暖かく、空間自体が和やかで美しく浄化されていく。


〽花のしら露春ごとに 

 打ちはらふにも千代は経ぬべし


 曲はまろやかな響きで終焉を迎えていた。

 倭花菜が裾衣をふわと払えば、どこからともなく無数の蝶が現れた。

 ひらひらと中庭を飛び回る蝶を楽人たちは唖然と視線で追っていた。

 みな何が起きたのかわからない。倭花菜は歌で春を呼び寄せていた。幻ではない、まだ北風つめたい冬なのに、歌で実体をもつ春の息吹を顕現させ、この血濡れた中庭にそれを構築してみせたのだ。目の前を色とりどりの蝶が飛びかっていく。春風が実際に吹きぬけ、石畳のすき間には春の草花が生えている。

 楽人たちは奇跡をかみしめ恍惚としていたが、美蛾娘の横に控える鎮官の長・魔醜座ましゅうざは、別の意味で驚嘆していた。


「これが神触かみふびとの力か……」


 天帝のおわす後宮では、まれに才ある者が「神触れ人」として神の加護を受けることがある。滅多にあることではない、長らく勤める魔醜座も話に聞くだけで実際に見るのは初めてだ。

 神官の長たる魔醜座には、倭花菜の背後に微笑むたおやかな女神の姿が見えていた。彼女が無意識に降ろしてみせたのは、気高さをなにより尊重する弁財天女神だ。

うす紅色の気高き女神は、倭花菜の歌の技量と死をも乗り越える底しれぬ誇りに応え、今後も彼女に加護を与えると頷いている。

 倭花菜の歌が止むと、周囲にあった弁財天女神の気配は薄れていく。実体として構築された春の息吹も冬風にしおれ、蝶たちは寒風に飛ばされ消えた。

 ほんの一瞬、きらびやかな夢を見ていたのか。

 先ほどまで怯え震えていた楽人たちは倭花菜の起こした奇跡を目の当たりにし、今は穏やかな顔で笑みすら浮かべる。

 美蛾娘にはそれがおもしろくなかった。彼女にとって場の支配は快感であり、血しぶきと悲鳴が香水代わりだ。それらを奪ってしまった倭花菜を美蛾娘はすぐに殺したかったが、同じ麗空れいくう家の人間をむげには扱えない。金扇で表情をなかば隠し、仕方なく形だけでも褒めることにした。


「すばらしかったぞ、倭花菜。陛下も喜んでおられる」


 倭花菜はしおらしく笑み小さく頷いた。その愛らしい黒瞳のなかに底知れぬプライドと勝気さが濡れ光ってみえる。

 倭花菜が悠々と場を去っていくのに、美蛾娘はますます腹を立てた。


「あの両瞳を潰し、はらわたを引きずり出してやりたい。後宮に来たらいたぶってやる」


 美蛾娘の決意は固まった。

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