取引ー3

「『わからない』?」


 翌日の昼、古謝から話を聞いた柘榴帝は裏庭で頭をかかえた。


「本当に蓮はそう言ったの? それだけ?」


 他にないのかと問えば、古謝は上機嫌でにっこり笑う。


「そうだよー。それだけ」


 さあ早くとばかり片手を差し出され、柘榴帝は苛々と天をあおぐ。古謝に伝言や使いを頼もうとしたのが間違いだった。


「ねぇ約束だろ? 早く!」

「わかった、わかったから」


 柘榴帝が持ってきた不花ふばな皇子の手記を渡すと、古謝はなめるようにそれを読みはじめた。期待に輝いていた古謝の顔はけれど固まり、驚きに変わる。柘榴帝は満足げに頷いた。


「そういうことだよ、神衣曲を習得するっていうのは。兄さんがどこまで進めたかはわからないけど」

「これ、だって死んでるよー!?」

「死んでない。死んだら曲をひけないだろ」


 古謝が見ているのは、神衣曲を習得するための絵図だ。柘榴帝の兄、第一皇子の不花は本当にそれを実行したようだった。細かな手順や設計図、日数、時間までもが手記には実際的に記されてある。

 不花が神衣曲を習得できたとは柘榴帝は思っていなかった。おそらく死んだか廃人に近い状態になっているだろう。そもそもこんなこと、常人に耐えられるわけがない。


「もし君がそうしたいなら」と、だからあえて柘榴帝は言った。

「俺が手配してあげる。れ物も手伝いの人も、全部」


 きっと断るだろうと柘榴帝は思った。古謝はまだ成人すらしていない子どもだ。人生これからという時におのれの命を危険にさらしたくないはずだ。

 古謝はぎゅっと下唇をかみしめていた。その顔色は白いが、黒目にぎらつく決意がのぞき見えた。


「俺、やってみる。やりたいんだ」

「どうしても?」


 頷かれてはかえす言葉がない。今の古謝を見れば、やめろといなすのが無駄だとわかる。


「わかった。じゃあ手配させるけど、なぜそうまでしてこの曲にこだわる?」


 古謝には無限の才能があるのに、それを一曲のために捨ててしまうのか。神衣曲などとるにたらないつまらない曲かもしれない。わからない、誰もその音色を聞いたことがないのだから。柘榴帝には古謝が己を軽んじているようにしかみえなかった。若さゆえの無謀や無鉄砲なら言葉をつくし守ってやらねばならない。わずかとはいえ顔を合わせるようになって古謝のことを憎からず思ってもいる。蓮のことも話せるし、対等な関係で話してくれる人間は貴重なのだ。


「俺、あとちょっとしか生きられないんだよ」

「なんだって?」

「臓器の病なんだ。寺にいたころ薬師にそう言われた」


 寝耳に水だった。それならそうと言ってくれれば王宮の待医をすぐにでもあてがったのに。再診を薦めようとして柘榴帝は口ごもる。寺の薬師は王宮の待医と同じかそれ以上の腕だ。実際、王宮が高名な寺の薬師を呼びよせることも多い。古謝の命はその言どおり、残りわずかなのだろう。だから神衣曲を習得したいと言えるのか。残りすくない命ならどうでもいいと、そう思っているのか――けれどそういうわけでもなさそうだ。


「俺さ、もうすぐ死ぬってわかったとき、音楽と離れるのが一番怖かったんだ。もう弾けなくなる、歌えなくなるってそればっかり。なら死ぬまでは好きなことしようって思った」


 古謝の言葉に偽りはない。彼は残された時を大切に、本当に身を削りたいことのためだけに使うという。どうせ死ぬからと命を粗末にするのではなく、神衣曲の習得こそがもっともやりたいことなのだと。


「だから死にたくなんてないし死ぬつもりもないよ。できればだけど、長生きしたい。そしたらもっとたくさんの曲を弾けるから」

「……そう」


 柘榴帝はまじまじと目の前の古謝を見直した。おかっぱ頭の小さな少年、とても幼くみえる彼もそういえば立派な王宮楽人だ。

 死の際にまで音楽を求めるその心は帝には微塵もわからない。けれど楽人とはそういうものなのだろう。

(蓮ならわかるかもしれないな。蓮なら)


「それで、いつ練習できるの?」


 わくわくと目を輝かせる古謝の正気を柘榴帝は疑ってしまう。本気だろうか?

 けれどやはり古謝は生粋の楽人だ。音楽の価値は命より勝る、それを理解できてこそ真実、本物の楽人になったと言える――そう兄の不花が常々言っていたのを、柘榴帝は思い出していた。

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