取引ー2
午後のやつ時、古謝が宮へ戻ると蓮はめずらしく机に向かっていた。
窓際に腰かけ一心不乱に墨をすっている。蓮の手元にある墨はすでにどろりとして濃く、彼がいつからそうしているのかわからない。古謝は生唾をのみこんだ。
「蓮、話があるんだけど」
来訪に気づきもしなかった蓮はようやく顔をあげた。
「――なんだ」
顔色があまりにも悪く土気色で、古謝は言葉につまってしまう。泳がせた視線の先、机上に割れた龍笛があるのを見つけて、後ろ手に隠し持ってきたものを差し出した。
「あの、それもごめんなー。これ使ってよ」
古謝が楽舎で作ってもらった新品の龍笛だ。黒い笛は塗りも新しく、窓からさす夕陽につやと光っている。蓮は感情のこもらない目でそれを一瞥し、部屋の壁際をどうでもよさげに示した。
「そこに置いておいてくれ」
「うわぁ」
壁際にはさまざまな贈り物が積まれていた。各宮の
古謝はしかたなくその上に笛を置いておく。蓮には必要なかったのだろう。これだけの笛があるのに、それを箱から開けずに放置しているくらいだ。
(あれだけ演奏できるのに、一度も吹こうと思わなかったのかな)
古謝にはまったく理解できないことだ。もし自分が蓮なら、積まれた高価な桐箱を片端から開け、名工の髄でつくられた笛の響きを存分に味わいつくすだろう。それとも笛を吹けない理由でもあるのか、まだ体調が悪いのかもしれない。
蓮は黙って墨をすり続け、こちらを見もしない。部屋に流れる微妙な空気を古謝は咳払いでかき消した。
「聞きたいことがあるんだけど」
蓮は無反応なままで顔も上げない。古謝は喉につまる重たさを感じたが、言葉を続けた。
「体調はもういいの? なにか欲しいものはある?」
沈黙、こたえはない。うつむきどろどろの墨をさらに濃くし続ける蓮に、戸惑いつつも手元の紙を見て古謝は聞いた。
「えっと……花は何が好き? 色は? 好きな
「お前、誰に言わされてる?」
貸せと、見もせずに片手が差し出された。古謝が誰かに質問用紙を渡されたことに気づいている。すこし迷って古謝はそれを手渡した。柘榴帝からは「これを聞いてきてくれ」と言われたが「この紙を見せるな」とは言われてない。極論、蓮に質問してきたという事実さえあればそれでいいと考えたのだ。
蓮はしばらく流麗な手からなる質問をじっと読んでいた。紙を最後まで読んでいない古謝は知らなかったが、続きにはこう書かれていた。
『俺のことが嫌いか』『伽をするのが嫌か?』『会いにいったら迷惑か』
最後の『俺を殺したいか』という項まで目を通した蓮は、喉奥で呻き頭を抱えた。
「なんて書いてあったの?」
蓮はしばらく固まっていたが、諦めたように紙を机に放り投げる。その顔はひどく疲れている。
「なんで俺を気にかける」
天帝なのだから好きなように振るまえばいいと蓮は言う。会いたいなら来ればいいし、抱きたいならそうすればいいのだと。いっそ横暴に振舞ってくれたほうが楽だという風だ。人の心の機微にうとい古謝は、柘榴帝から言われたことをそのまま伝えるしかない。
「蓮のことが好きだって。あいしてるって」
「ッ、あいつは俺が好きなんじゃない。昔の俺が、
神妙に言葉を返す蓮は苦々しく、それでも本音を少しずつ口にしていった。
「いつも伽で、呼ばれる名前は晧月だ」
柘榴帝のなかで蓮は昔のままなのだ。彼は今の自分をけして見ようとしないと、蓮は苦悩している。
「俺が天帝を憎んできたことを無かったことにはできない。この恨みも消えてない。それをあいつは」
どの口で『好き』とのたまったかと蓮は恨めしげだった。天帝なのだから何をして言うのも好きにすればいい。ただ蓮の気持ちまで推し測り、支配しようとすることに戸惑っている。もう昔のままの子どもではない、蓮は晧月とは違うのだ。それなのに柘榴帝が晧月として扱うから、蓮の中でもそこがうまく整理できなくなってしまう。昔の自分、晧月は理性と反する場所にいて、薫香の匂いを嗅ぐと途端に体の主導権を奪ってしまう。無意識に柘榴帝にすがりついてしまうのなら、それが本心なのだろう。けれど蓮にはそれが認められない。
柘榴帝のことは嫌いではない。ただ薫香のない理性的な空間において、それを認めることはできないと蓮は懊悩する。復讐心と記憶、理性と本音に挟まれ精神的にも肉体的にも潰されかけている。
話を聞いた古謝には当然、そんな細やかな機微はわからない。曖昧な説明では蓮の気持ちがどこにあるのかも理解できなかった。
「じゃあ結局、なんて伝えればいい? 好き嫌いを聞いてきてくれって言われたんだけど」
「そんな簡単な話じゃない。あいつが好きなのは昔の俺だし、俺にもこれまでの恨みというものが」
「そんなのどうでもいいよー。俺が聞いてるのは、今の蓮のことなんだから」
過去がどうとか、柘榴帝がどう思っているかは関係がないのだ。ただ蓮に質問しその答えを持ち帰る。全部とはいかなくてもひとつくらい答えを渡せば満足してくれるだろう。そうすれば古謝は神衣曲を教えてもらえるのだ。
柘榴帝になんと伝えるか。帝を好きか嫌いか、ひと言で済むその質問に蓮はたっぷり十分は悩んだ。眉を寄せ虚空をにらみ、しびれを切らしかけた古謝にひと言、
「わからない」
かぼそい声でそう零した。
けれど古謝にはそれだけで十分だった。翌日手に入るはずの神衣曲のことを思うといてもたってもいられず、すぐさま宮を飛び出した。それから次の日までひと晩近く、古謝は楽舎で筝をひき待っていた。
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