殺意
「やめよ」
美蛾娘の静止に足を止めた。殺意に気づかれたか。
美蛾娘は呆れたように欠伸をしていた。
「妾は三味線に飽いたわ。他に弾ける楽器はないのかえ?」
美蛾娘は金扇子のうちで笑っていた。多種の楽器を流麗に扱える楽人は少ない。御前で披露するのだから、よほど腕におぼえのある楽器を使わなければ失礼にあたる。ただ楽器を嗜む程度では王宮では弾けることにならないのだ。
居並ぶ楽人たちはやり取りを見て絶望していた。これまで選抜に来た者たちはみなひとつの楽器しか扱えなかった。そのことに味をしめた美蛾娘は、この手法ですでに三人の少年・少女たちを屠っている。他に弾ける楽器がなければ無能とし、即死罪になる寸法だ。
「かしこまりました」
けれど蓮は動揺すらしなかった。その場から他の楽器を手に取るかと思いきや、自らの背にさした
紡ぎ出された低く細い音は夏を想起させた。
若竹の香り。真夏の蒸し暑い土の匂い、落ちる雨音。蛙の鳴き声。
うつむいていた楽人たちがぎょっと蓮を見やる。
「これは『夏の調べ』か?」
基礎中の基礎、有名な曲で楽人たちにも聞き覚えがある。しかし奏でられたそれはよく知る響きではない。
「なんと刺々しい音か。いやちがう、これは」
抜き身の刃に似た響きなのだ、そうとしか形容できない。本来の『夏の調べ』は涼やかで人を癒す音楽なのに、奏でられた曲はそれとは似ても似つかない。
ぴんと張られたひと筋の殺意のようなのだ。
優雅に表現されるはずだった若竹のくだりは、鋭い刀に似た音で小気味よく切られてしまう。
真夏のうだる土の響きは、激しい怒りの炎によって一瞬で焦土と化した。
しずかな雨音を表現するとみせかけ嵐が吹く。雨を喜んでいたはずの蛙の声は雷鳴に打たれ、かき消えた。
蓮は『夏の調べ』を奏でたが音にのる憤怒は隠しきれない。居並ぶ楽人たちは蓮が美蛾娘への怒りを表現したのだと思った。この惨状におじけもせず凛々しく前へと歩く姿に感服した者もいる。
しかし蓮は黒御簾の奥しか見ていなかった。ふつふつとした怒りを眼底に湛え、こらえきれない思いで黒瞳に涙すら浮かべて天帝のほうへと歩いていく。
(この音で殺してしまえたなら。こんなに気持ちをこめているのに、なぜ死んでくれないのか。どうしてまだ生きているのか)
蓮の演奏は壮絶だった。ただ笛の一音、そこに言葉や詞はない。しかしなにより雄弁に感情と心を物語る。
天帝のすぐ近くに控えていた鎮官たちは、近づいてきた蓮への対応が遅れた。いつの間にか音に惹きこまれていたのだ。鎮官たちが蓮を止めようと槍を掲げると、穂先に亀裂が入り砕け散ってしまう。まるで蓮の歩みを止めぬように、透明な意志が槍を破壊したようだ。唖然とする鎮官たちの横を蓮は笛を吹き、ゆっくりと通り過ぎる。止められぬ意志の風が吹きさっていくようだ。
蓮は階段を優雅に上がり、黒御簾のすぐ前まできた。壇上の美蛾娘はあまりのことに固まっていた。青ざめ白くなった顔からは蓮への怒りと恐怖が窺える。
美蛾娘の後ろに控える鎮官の長・
「間違いない、この少年も
魔醜座には蓮のうしろに、憤怒の形相でうごめく毘沙門天神の姿が見えていた。地獄の業火をまとう雄々しい
黒御簾の前まで来た蓮は演奏を止めていた。音で殺せぬなら武器で天帝を屠るしかない。けれどここへきてようやく途方にくれたのだ。手持ちは古謝から返してもらった白鳩の根付の毒と、鈍器として使えそうな龍笛だけ。そのいずれかで確実に天帝を殺せるだろうか。
笛の音が止むと毘沙門天神の影も薄らいでいく。酸素が戻ったように自然と場の空気が緩むなか、ひとり美蛾娘だけは怒りに頬を染めていた。彼女が何か言う前に、御簾奥からしわがれ声がした。
「すばらしかった。下がるがよい」
天帝自身の声だった。
美蛾娘は唖然としていた。天帝自ら下々の者に声をかけるなどあってはならない、それは天地がひっくり返るほどの賛辞であり、蓮が気に入られた証だ。
美蛾娘はしかたなく腰をおろした。忌々しいことに蓮は天帝の寵を得たのだ。この場でわかりやすく殺してしまっては不興をかってしまう。
蓮は呆然と黒御簾の奥を眺めていた。
(すばらしかった?)
いま聞いた言葉が信じられなかった。褒められるために吹いたわけではない、あわよくば死ねと、殺したいと思って出した音なのに――。
立ちすくむ蓮を鎮官たちが引きずっていく。天帝に「下がれ」と言われたのだから、この場はなんとしても下がらせるしかない。引きずられていく蓮を見て美蛾娘は怒りに目をぎらつかせていた。
「許せん、許せん! あやつは
美蛾娘の怒りはここへきて最高潮に達した。これから選抜にやってくる楽人たちをひとり残らず殺すと決めた。
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