焦熱ー3
(あと少し、あと少しで届く)
蓮が手をのばしたその先で求めていた炎がふと消えた。高燈台で揺れていた火には誰も触れていない、風すらなかったのだ。ただ一陣のしゃんと鳴る筝が空気を震わせ火を消してしまった。そうとしか思えない。
蓮は反射的に振り返った。部屋の中央、楽人席の筝の前に古謝の姿がある。
(馬鹿な)
青ざめた古謝は苦痛に汗を滲ませ、それでも蓮を睨んできている。ここへくる前、蓮は古謝に毒を盛ってきたのだ。命に関わるようなものではない、けれど意識を保てなくなるくらいに重度の毒だ。腹痛、吐き気、眩暈、古謝はいま座っているだけでもやっとのはず。すばやく視線を巡らせれば、部屋の隅で球磨羅楽人が青ざめへたりこんでいる。古謝をここまで担ぎ間に合せようと走ってきたのだろう。
(余計なことを)
蓮は自分がうっすら笑むのを自覚した。怒りのせいだ。
(死にたいなら死ねばいい。ただ邪魔だけは許さない)
息も絶え絶えの古謝へと近づいていく。繰り返し奏でていた旋律を、より鋭くなるようもう一度吹いた。
〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労
楽しむなかに何のその
人目堤のあらばこそうれし 世界に住み馴れて
蓮は笛を吹くことで己の信念を貫き通せる気がした。甲高い音に気分が落ちつく。
誰かが背後から自分を後押ししてくれている気がする。見えない大きな存在は音にこたえて力強い声で進むべき道を教えてくれている。
(導火線はまだある。もうひとつある)
爆薬への道はひとつではない。予備の導火線は一番近づきやすい部屋の中央、楽人席の角にも用意してあった。
古謝が察したように呻き、筝をかき鳴らそうと身じろぐ。動くなと無言で命じた蓮の言葉が笛にのり、音の圧力となって古謝を抑えつけた。
「あ、……う……」
古謝が筝の上に倒れた。それでも弦へと手を伸ばす横で、筝の弦が一本ずつ切れていく。鋭く鳴らす笛が音の刃となって、古謝から音の出もとを刈りとった。
畳の角に立てられた高燈台、その下の床穴からは白い捩じり紐の導火線がのぞき見えている。蓮が炎に近づくと、うずくまっていた
「や、めろ……」
腕をあげようとした魔醜座の身は笛の音にあわせ押し潰された。意識を失った魔醜座を無視し、蓮は無心で炎の中心へと手を伸ばす。
(あと、すこし)
何をしているか、すでに考える必要はない。ただ蝋燭をつかみ取り導火線に火をつける。簡単な動作だ、なにも臆することはない。失敗はしないと誰かが後ろで囁いた。爆薬にも導火線にも不備はない、ただこの火を導火線に移せば長年の恨みが晴らされるのだ。
(恨み――?)
ふとおぼえた違和感に蓮は内心首を傾げた。
恨み、そうだ違いない。自分の家族を皆殺しにした先帝への憎しみをけして忘れはしない。
どす黒い怒りに目の前が染まっていく。
指が蝋燭の火に伸びた。
すでに笛の音はしない、演奏は止めている。問題ない、火はもう間近にあるのだから。あと数秒で手に入る。じりじり焦げる蝋燭の熱に指先が鋭い熱さを感じ出す。
これで終わる。積年の恨みも憎しみも、そして自分の人生もなにもかも――そうやって伸ばした手を、力強い別の手が握り止めた。
「止めなさい。俺がそんなに憎いか?」
柘榴帝だった。音もなく死角から近寄ってきて、炎の前に立ち塞がった青年は蓮の右手をしっかり掴み止めていた。水色の瞳に火がうねり揺れ複雑な感情が見え隠れする。怒りでも哀れみでもない、いっそ慈悲深いとさえ言えるような瞳に蓮は息をのむ。なんという顔をしているのだろう。
「俺を、殺したいのか?」
問いは囁くほどの音量だった。周囲に聞こえない程度の声に蓮は唖然と固まってしまった。
(『憎いか』?)
すんなり出るはずだった答えが出てこないのだ。当然あるはずの答えを自身の中で探り、燃える火影に視線をずらした。炎の手前でがっちりと握り止められている己の右手。簡単に払おうと思えば振り払える。今ならこいつを殺せる。左腕だって自由なのだから、今なら。これほどに接近した今なら、火など使わなくとも簡単にこの手で殺せるのに――……。
憎いか。
視線を戻せば、間近にある水色の瞳は緊張しているようだった。
急に笑いだしたくなった。
憎いか? なぜそんなことを聞くのだろう。
爆薬など遠回しな方法を選んだ理由に思い至った。もっと身近にこの手で殺せる方法があったはずだ、それなのに自分はもっとも迂遠な手段を選びとった。
(それはなぜ)
馬鹿げている。この世のすべてを有し絶対的な権力を持つ柘榴帝が、自分のことなど指先ひとつで殺せてしまう帝が怯えたように答えを待っているのも。またとないこの好機にぴくりとも動かせない自分の体と意志にも。忌々しい、今こそ己を殴り殺したい。
すでに答えを知っていた。
(馬鹿げてる)
笑おうと吐き出した息は震え嗚咽になった。瞬間に、答えを悟った毘沙門天神は失意の顔つきでその気配をうすめていった。
覚悟は崩れ、恨みはうすめられた。蓮が真に恨んだ対象はとっくにいない、死んでしまった。抹殺したかった相手は柘榴帝ではない、すでに他界した鳳梨帝だった。
(わかっていたことだ、俺が殺すべきはこいつじゃない。わかっていたのに)
作り上げた虚構の怨嗟が消えると、張りつめた緊張がゆるみ蓮は膝からくずれおちた。とっさに帝が支えようと手を伸ばしてくるのに、蓮は抵抗すらしなかった。なにもかも、己の命ですらもう意味がない。生きる意味がないのだ。すべて消えてしまった。
暗く茫洋とした虚無のなか、蓮は静かに泣きながら目を閉じる。この世に見るべきものなどもう何もない、そう思った。今こそ世界がはじけ壊れてしまえばいいと。
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