焦熱ー2
笛に息が吹きこまれる。なだらかで細い音がゆっくりと奏でられていく。
〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労
楽しむなかに何のその
人目堤のあらばこそうれし 世界に住み馴れて
笛の音に歌詞はない。けれど不思議と奏でられる節があるべき情景を教えてくれる。
涼やかな旋律は、夜にかくれ逢瀬をたのしむ男女を火影に映しだした。あまやかな恋の情景に居並ぶ妃嬪たちはうっとり聞きほれる。優しかった音は少しずつ、けれど静かに波乱を帯びて情景を無惨なものへと変えていった。
〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労
楽しむなかに何のその
人目堤のあらばこそうれし世界に住み馴れて
また同じ節の繰り返しだった。そこに表現される光景は、けれど先とはまるで異なるものになっていた。
恋の炎が激しく燃え上がり、灼熱の業火となって歌の中の男女とその周囲を焼きつくす情景だ。甲高い悲鳴をあげ、焼け爛れていく人々の姿。つんざく悲鳴と炎の爆ぜる熱、肌が焦げる異臭までもが笛の音により表現されていた。
聴衆は顔をしかめ、あまりの異様さに吐くのをこらえている。魔醜座は音の圧力を感じながらも怪訝な思いでいた。
(これだけか?)
蓮は神触れ人なのだ。たかが笛の一音で空気をここまで変えてしまえるのはおそろしいが、怒りにまかせて不快さを表現するだけなら何も問題ない。そう、天帝を傷つけようとさえしなければなにも――……。
蓮はゆっくりと歩きだしていた。天帝の席とは反対へ、部屋の端へと歩いていく。そちらに何があるというのか。
魔醜座は目をみはる。
蓮の背後に巨大な毘沙門天神が姿を現しはじめたのだ。怒れる神が火の粉を散らし、無数にある手を伸ばした先には、
「ッ!?」
とっさに立ち上がろうとして、魔醜座は上から見えない圧力に抑えこまれた。
(つぶされる、体が重い――!)
重みに耐えかね床にへばりついているのは他の鎮官たちも同じだ。炎のそばに配した全員が毘沙門天神の無数の手で押さえつけられている。蓮は演奏を続けながら静かに室内を睥睨した。
〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労
楽しむなかに何のその
人目堤のあらばこそうれし 世界に住み馴れて
悪夢のように同じ旋律が繰り返される。
立ち上がろうとすると逆にきつく上から抑えこまれ、床に倒れてしまう。逆らおうとすればするほど重みが増す。衝撃に息がつまり咳をしたと思ったら、魔醜座は血を吐いていた。押さえつけられ圧力に内蔵が傷ついたのか、体がうまく動かせない。
魔醜座にはようやく蓮の意図がみえてきた。彼が求めているのは高燈台の炎だ。部屋の隅にあるその火の下に、おそらく何か良くないものがある。場の全員が蓮の笛に気をとられ、この異常事態に気づいていない。みな蓮をじっと見つめ凍りついている。毘沙門天神が場の空気と視線を音で固めて支配していた。酸素が消えたように息がつまる。どろつく気配で全身が泥の中にあるようだ。
部屋の隅にある炎へ蓮がゆっくり手を伸ばす。
魔醜座は藁をも掴む思いで炎の側にいた鎮官の姿を探していた。炎のすぐ横に配していたはずの同僚はすでに床にひしゃげ血まみれになっていた。どうやら蓮を止めようとして逆に毘沙門天神に押し潰されたらしい。床におびただしい血が流れているのに、誰も惨状を気にもとめない。その死に気づいていないのだ。異変に気づいているのは、鎮官など一部の人間だけだ。
(間に合わない!)
蓮の指先が燃える燭台に届く……その寸前、軽やかな音が空気を動かした。一陣の風が吹き抜けた気がした。
蓮のすぐ前にあった炎が消えた。魔醜座の後ろ、部屋の中央にある畳の上で、息も絶え絶えの古謝が筝の前にうずくまっていた。筝の音。かすかな一音が炎をかき消したのだ。
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