ささめき
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――音がする。いやしない。
古謝は神衣曲を習得するための試練に耐えていた。
窓ひとつない天井からは鎖枷が伸び、古謝の両手をつりあげている。目を布で隠された状態で、古謝は飲まず食わずじっと耐えていた。
少し前までは窟に入れられた大量の毒虫が体中をはい回り、肌を刺し苦しめてきたが、その動きも時とともに弱々しくなっている。毒虫の形は感触からするとムカデで、何本もの足が肌をはい回り鼻や耳に入ろうとするたびに悲鳴を上げていたのだが、しだいにその刺激にすら慣れてしまった。皮膚全体が麻痺し、虫刺された痛みや這いまわる感覚がわからなくなったのだ。必死に歌い続けた音楽のおかげかもしれない。うわごとのように曲を口ずさみ、乾いた唇をなめて古謝は空腹と乾きに耐えていた。窟に入ってからもう何日も水の一滴すら飲んでいない。
魔醜座はどこへ行ってしまったのだろう。本当に窟の外にいるのだろうか。ここへ入る前、魔醜座に言われたことを思い出した。
『窟の中にいても、私にはお前の生命力が視えている』
だから本当に死にそうなら助けてやると言われたが、ここしばらく古謝は死にそうなのに魔醜座からの反応はない。
(本当に外にいるのかな。もう俺のことなんか忘れてどこかに行っちゃったんじゃ……)
「うっ」
けれど魔醜座はたしかに窟のすぐ外にいるようだ。外から異様な匂いが注ぎこまれてきたのだ。両手を吊るされているので鼻をつまむわけにもいかず、思い切り匂いを吸いこめば得もいわれぬ臭みが脳天をつく。涙が出てきて反射的にえずいてしまう。吐くものもないのに嘔吐し、同時に舌が異様な苦みを味わった。
(死んじゃうって。死ぬ!)
くさくて息ができない。息はしているが吸いこむ空気がもったりと重く、酸素が足りない気がする。この匂いのせいだ。鼻水と涎をたらし息を止めることもできず、極限の苦しさに古謝はむせび泣いた。あとどれだけこんな状態が続くのだろう。本当にこれが神衣曲の習得に必要なのか。
「たすけ、て! もう無理、たすけて……!」
古謝は窟のなかで必死にわめき、魔醜座の名を呼び続けた。声は厚い土壁に吸収され、外に響かず閉じこめられている。
窟の外では、魔醜座が匂いの元である
「大詰めだな」
神衣曲の習得には九つの段をへなければならない。人の身であれば手放すことのできない八つの感覚と欲求――痛覚、触覚、視覚、飢えに乾き、嗅覚、味覚、聴覚、それらを手放すための拷問を行い、苦痛に耐えきれた者だけが最後の段で曲を習得する。その過程の短縮をと懇願され、出した結論がこれだった。
(古謝の目を塞ぎ窟のなかに閉じこめる。毒虫を放ち、飲まず食わずで放置する。そこへ苦葉で煙を焚き、嗅覚と味覚を失わせる)
窟の外からでも魔醜座には古謝の生命力がありありとみえている。体は弱っているが、曲を求める意志の強さゆえに命の灯はますます燃え盛っている。おそらく古謝は乗り切れる。大人でも悲鳴をあげる拷問を、幼い少年はひと息に七つもやっつけようとしていた。神衣曲への執着は苦しみの中で微塵もゆるがないのだからおそろしい。魔醜座は最後までつきあい、なりゆきを見届けるつもりだった。ここまできたのだ、最大限の尽力で修練を支えるのが古謝にこたえる唯一の方法だろう。
巨大な扇で必死に煙をあおいでいると、幽鬼のような柘榴帝が現れた。
いつもの豪奢な金衣姿なのに、なぜか別人のように色あせ
柘榴帝は力尽きたように窟の前にくずおれた。挨拶の礼もそこそこに、魔醜座は聞かずにはいられない。
「いかがされました。表でなにかあったのですか?」
古謝に付き添いこの庭にきてから、後宮はおろか王宮にも魔醜座は顔を出せていない。
柘榴帝と最後に会ってからまだ一週間もたたないのに、この変わりよう。空気が騒がしいとは思ったが、やはり表で何かあったのだ。
柘榴帝は苦葉の煙に目を細め、匂いに動じることなく口を開いた。
「蓮が、死んだ」
「なんですって? いったい誰が」
とっさに他殺を疑ったのも無理はない。柘榴帝の寵愛をこれでもかと得ていた蓮楽人は妬みやそねみをかい、いつ失脚してもおかしくなかった。
(しかし神触れ人の彼がそう簡単に殺されるだろうか?)
魔醜座はその考えを即座に否定する。柘榴帝の暗殺に失敗した蓮は気力衰え、神を呼べるだけの力を失っていたように見えた。弱っていたところを、誰かに足元をすくわれたのだろう。
ぼんやりと柘榴帝は窟内の古謝へ語りかけていた。
「この国は、もう終わりだ」
辺境でくい止めていた蛮族が、宮内の者の手引きで国のすぐ外まで迫っていると帝は言う。魔醜座は驚愕したが、口を挟むのはさし控えた。柘榴帝はどうやら古謝へ話しにきている。
「かなうなら、君の習得した曲を聞いてみたかった。蓮と一緒に……そう、蓮と一緒に。そうすればもっと違う未来もあったかもしれない。こんな惨めな終わりではなく、もっとすばらしい時が」
古謝からの返事を待っている柘榴帝に、魔醜座はしかたなく告げた。
「陛下、窟内は極度の無音空間です。こちらの声は聞こえないかと」
柘榴帝は魔醜座の声が聞こえなかったように窟を見る。ひょっとすると、ただとりとめもなく話したかったのかもしれない。語り相手に古謝を選ぶとはそういうことだ。燃えていた苦葉の煙はすでに消えかけてきていた。
(問題ない、十分に窟内へ香りは染みわたった)
柘榴帝は静かに話し続ける。
「今になってようやく気づいたんだ。この俺さえいなければ、万事うまく収まっただろうって。俺が帝位を継がなければ――いや、それからでも消えていれば、美蛾娘が反旗を翻すこともなかった。きっと弟の
堪えきれないと言葉につまる帝に、魔醜座はかける言葉をもたない。柘榴帝の言っていることはある意味正しく「そんなことはない」と否定できない。魔醜座は王宮で何が起きているかを類推してみる。
(美蛾娘が反旗を翻したと言われた。辺境の蛮族が、宮内の者の手引きで国へ近づいているとも)
つまり国はいま真っ二つに割れているのだ。美蛾娘の派閥とそうでない者の派閥。以前からその気配はあったが、裏で静かになされていたやり取りが表ざたになり、ついに革命の気運になったに違いない。美蛾娘は蛮族を手引きし、武力で柘榴帝の退位をせまるだろう。きっとあとには第三皇子の紫香楽をすえる気だ。実子のない美蛾娘はそのために、ことあるごとに第三皇子の後見を名乗ってきたのだから。
立ち上がった柘榴帝は窟にそっと手を触れていた。
「さよならだ、古謝」
柘榴帝は退位する気だ。おそらく自死する――そう魔醜座は悟ったが、何も言えなかった。天帝の決定は至上命令、鎮官はそこへ口を挟むだけの権限をもたない。
最後になる見送りの礼をしながら、ここに古謝がいればと考えずにはいられなかった。魔醜座はおのれの職分をこえて天帝の幸せを願えない。身にしみついた習慣から彼をひとりの人として考えることができないのだ。
(古謝なら違っていただろう)
だから柘榴帝はここへ来たのかもしれない。最後にひとりの人として古謝と話をするために。国に炎と血煙の気配がせまっている。下界を見る神々のささめきはしだいに大きく、耳障りになってきていた。
二日後、柘榴帝は天河に身を投げた。
川の流れは速く、供のものが御身を引き上げるまでに時間がかかり、助けられたときには重体だった。すぐに後宮の寝所へ運ばれ待医の治療を受けたが、意識はいまだ戻らない。衰弱し水をのんだ帝の生命力は消えかけている。誰もが帝の死を予感した。魔醜座の懸念どおり、国は新たな諍いへと引きずりこまれていったのである。
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