唱歌

 天河の楽奏船では連日、筝の鍛錬が行われていた。風虎につきそわれた古謝は来る日も来る日も筝の前で言われたとおりに弦をなぞる。


「ちがう! そこは、トンテテン、シャンだ! もう一度はじめから」

「もう疲れたよー」

「うるさい、弾けるようになるまで休めると思うな!」


 風虎は容赦ない。宴(うたげ)までもう日がないという焦りもあるが、後宮の楽人たちは基本的に人にものを教えるのに向かないのだ。彼らはみな楽の天才で、楽器の演奏や習得に苦労しない。わかりやすく丁寧に演奏を教えようとしても相手が出来ないことの方に苛だってしまう。


「なぜこんな簡単なことができんのだ! なぜ!?」


 頭を抱えた風虎の横で古謝は青ざめ、後ろへひっくり返った。この船に移りすでに二日、飲まず食わず眠らずで練習をしていた。座り続けた足は痺れ感覚がなく、頭は糖分が足りずに靄がかかっている。右手の指は弦をはじきすぎたせいで腱鞘炎になり、少し動かしただけで筋肉がつった。肩まで針を刺したように痛む。耳奥でしつこく鳴り続けるのは風虎ががなりたてる筝の唱歌しょうがだ。様々な音パターンと意味不明な擬音語が頭の中を渦まいている。古謝は呻き文句をたれた。


「そんなトンレン、シャンシャン言われても分からないよー」

「なぜだ、奏法はすべて最初に教えたろう。シャンは合わせ爪でこう、シャッは掻き手でこうだ」

「譜を見せてよ。そのほうが万倍は早いよ」

「ならぬ。最初に言ったはずだ。筝は唱歌しょうがで覚えるものだと」


 筝の修練には唱歌しょうがと呼ばれる言葉を使う。曲のメロディーを置きかえ歌ったもので、師匠が弟子へ教える時には必ず唱歌で口伝と決まっていた。

 たとえば「シャーン リン」なら中指で第一弦からなぞるグリッサンド奏法、「シャシャテン」は隣りあうふたつの弦を人さし指と中指で同時に弾き、その後に親指でオクターブ上の弦を弾けという意味あいになる。師匠が唱歌を歌って繰り返し、弟子はそれを耳で憶える。筝の世界では譜面が見られるのは免許皆伝になった時だけだ。実力を認められてはじめて形となった譜が見られる。

 楽人の世界には決まりごとが多く、上下関係が厳しいものだ。古謝はその厳しいしきたりにまいっていた。民間の三味線なら口伝も譜もあるしどちらを使ってもいい。いくらメロディーをおぼえるのが得意でもそれを特殊な言葉で、奏法と組み合わせて覚えろと言われても無理だった。むしろそれなら譜を見て練習したい。


「も、俺、無理―……」

「しゃんと座らんか。はじめから奏法をおさらいだ、もう一回!」


 倒れた古謝を風虎が座らせていると、ちょうど蓮が様子を見にやってきた。


「どんな感じです?」


 蓮は炊事場から朝食を運んできてくれた。作りたての肉まんがふんわりといい匂いをさせる。


「飯!」


 断りもなくそれをがっつき始めた古謝に、風虎はげんなりと肩を落とした。


「まだ教えはじめて二日だ。身につくのはこれからだろうさ」


 蓮は片眉をあげたが頷いておいた。風虎の顔色と古謝の様子を見ればうまくいっていないのは明らかだ。


「すこし休まれては?」


 風虎は断りかけて、古謝が肉まんを握りしめ爆睡しているのを見てため息をついた。


「そうだな、儂も休まねば。いったん楽舎へ戻るから、悪いがこいつを見ていてくれんか」


 目を離したすきに逃げられては困ると、風虎は隈の濃い目をこすっている。頷いた蓮に感謝の意を示し、疲弊しきった表情でよろよろと男宮のほうへ戻って行く。

 ちょうどそのとき、入れ違いで対岸からきらびやかな衣擦れの音が聞こえてきた。


「ごきげんよう。風虎楽人はいるかしら?」


 倭花菜だった。彼女が船を覗いたときには風虎はすでに去っていた。呼べば聞こえる距離にいただろうが、蓮はしらりと首をふる。


「いない。何の用だ?」

「聞きたいことがあったのよ。まあいいわ、これ先日のお詫びに。風虎楽人に渡しておいてくださる?」


 手渡された籐籠には彩り豊かな練り菓子が入っていた。


「差し入れですわ。あなた達の分もあるから、よかったら一緒に召しあがって」


 気前のよすぎる倭花菜に蓮はうっすらと笑んだ。


「ありがたく頂戴する」

「ふふん、いいのよ」


 倭花菜は上機嫌で踵をかえし、去り際に「そこのあなた」と見張りの鎮官を一人呼び寄せると外へ連れて行った。帰ってこないのをしばらく見届けてから、蓮は船の反対側へと歩く。受け取ったばかりの藤籠をそのまま川に捨てた。水音に驚いた鎮官が慌てて駆けてくるが、蓮は「なんでもない」と苦笑した。


「ごみを捨てたんだ。すまない、驚かせて」


 鎮官は訝しげだったが、古謝がまだ筝の前で爆睡しているのを見て外へ戻っていった。


「さて、と」


 倭花菜からの怪しげな差し入れを処分した蓮は、古謝を手荒くゆすり起こした。


「起きろ」

「んー、嫌だよ……まだ、ねむい」

「お前に必要なものを持ってきてやったんだ。起きろって!」


 拳骨で頭を叩くと古謝は呻き目を開ける。


「痛っ、なに、なんで」

「ほら」


 蓮が袖内に隠していた紙束を取り出すと、古謝はそれに釘づけになる。


「なに?」

「『水宴すいえんの曲』の譜面だ」

「すいえん?」

「お前の練習してる曲だ。そんなことも知らないのか?」


 蓮は呆れながら紙束を筝の前に広げてみせる。古謝に口伝で筝を教えるとなるといつまでかかるかわからない。規則破りにはなるが、筝もひける蓮は『水宴の曲』の譜面をこっそりと書きおこしてきたのだ。


(二週間後の合奏には柘榴帝もくる。なんとしても成功させて興味を引かないと)


 柘榴帝に謁見できるのは唯一、演奏の場でだけだ。貴重な機会を蓮は逃すつもりはない。古謝にはなんとか筝をひいてもらって、三人で合奏の体をなさなければならない。眠たげな古謝は船をこぎ、首をかしげている。


「いいの? 譜は見ちゃだめって言われたけど」

「よくはない。だから今のうちに、風虎楽人がいない間に見ておぼえろ」

「でも、俺、もう眠くてー……」

「馬鹿だな。早く憶えればそのぶん早く休めるだろ。起きろ!」


 風虎もそうだが蓮も容赦ない。寝落ちそうな古謝を叩き起こし、譜をなぞらせて曲を教えこむ。譜があるので口頭よりはわかりよかったが、古謝は筝に関しては素人だ。細かな奏法や技術的な難所にくるとまともに弦を弾くことすらできずにつまってしまう。教え始めて数十分、早くも蓮は頭を抱えていた。二週間で間に合うとはとても思えない。


「なんとかしないと、なんとか!」


 そうこうしているうちに遠く近づいてくる風虎の紅服こうふくを見つけ、蓮は慌てて紙束を懐へしまいこんだ。古謝を見れば筝の弦の上につっぷし寝こけていた。


「いつまで寝とる、起きんか!」

「ふぁっ!?」


 風虎に蹴り起こされた古謝は何事かと辺りを見回した。


「あれ、俺の譜は?」

「そんなものないわ! そら、奏法のおさらいからだ」


 数時間休めた風虎はぴんぴんしていたが、古謝は途切れとぎれの睡眠で首をふらつかせ、実に危なっかしい。けれど合奏まではあと二週間しかないのだ。非情かもしれないが蓮には古謝の体調よりも合奏の成否のほうが大切だった。


「俺はこれで」


 去り際に振り返ると、古謝は半分眠りながらもなんとか音をなぞらえている。すこしではあったが譜を見せたことで音の輪郭はつかめたらしい。たどたどしい音を背に蓮自身も準備のために宮へと急いだ。柘榴帝の暗殺には様々な暗器が必要だ。その仕込みこそ蓮には最重要だった。

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