大雨

 古謝が楽奏船に乗りこんでから一週間がたった。

 この頃、国では長雨が続いていた。数日前からにわかに曇りだした空は晴れることなく、天から滝のような豪雨を叩きつけてくる。烏羅磨椰うらまや国には河川が多い。季節はずれの集中豪雨に早くも川は氾濫の気配をみせていた。

 王宮の文官たちが治水作業に頭を悩ませる一方で、後宮にある天河てんがも水かさを増し濁流となっていた。鎮官が総出で川べりに土嚢どのうを積み上げるかたわら、古謝は変わらず楽奏船で筝の練習をしていた。荒縄で岸につないだ楽奏船は濁流でかなり揺れる。立っている風虎が時々バランスを崩すほどの揺れのなか、古謝は難解な奏法に頭を悩ませていた。


「無理だよ、こんなのできっこない!」


 古謝の悲鳴にも慣れた風虎は揺れる船壁につかまっている。


「誰もお前に完璧な演奏なぞ求めんわ。さもできる風でさらっと弾ければよいのだ」

「そんな無茶な」


 古謝は眠たげに目をこすり、風虎が隙を見せるのをねらっていた。風虎はそばまで歩いていってその頭を思い切り叩いた。


「二度と逃げようと思うなよ! 今度逃げたら川へ放りこむからな!」


 弦をしぶしぶ弾きだした古謝はすでに三度逃走を企てていた。間抜けなことに転んだり鎮官に見つかったりしたわけだが、風虎は気が気でなかった。すでに合奏の日まで一週間しかないのだ。柘榴帝に完璧な音を届けられなければ、風虎だけでなく楽人全員が罰せられてもおかしくない。それでなくともこの豪雨、つくづく不運だと風虎は天をあおぎみる。川辺の土をも穿つ強雨のせいで視界は真っ白に煙っている。雨音もうるさいがなによりこの湿気がいただけない。


「この湿りけでは音などろくに響かんが、しかたない」


 筝は湿度に弱いのだ。弦楽器はおしなべて雨が降ると音が鈍ってしまう。

 風虎は開き直ることにした。こうも雨が降ってはどうせ音など響かないし、どこで弾いても同じだと、このまま船で弦の奏法だけを古謝に叩きこむつもりでいる。


「もっと流れるようにひかんか! 軽やかにささっと指を滑らすのだ!」

「もう無理だって! 何度やったって出来っこない、無理だよ!」


 古謝の練習する『水宴すいえんの曲』は移ろいゆく水の性質を称えた曲だ。霧から雲、雪から雨、ひょうから氷へと変わる水の質感を音で表現する。弦を鋭くはじいたり滑らせたりして霰(あられ)の飛び跳ねる音やふりしきる雨を、特殊技巧で擬音的に模したものだ。技術的な難所が多く名人でも苦労する曲を素人に、それも一夜づけに近い状態で覚えさせるのは不可能だ。

 それでも風虎はなんとか合奏の体をなせるまでには仕上げるつもりだった。


(あとのふたりに頑張ってもらって筝は最低限、音をなぞらせるだけでいい)


 風虎はいくつかの音を省き簡略にして教えたが、それでも古謝には難しい。


「無理だよ苦しい、しんどいよー! もう嫌だ!」


 古謝はひいひい言いながら青ざめた顔でひたすら弦をつまびく。不眠不休で続けられる練習は苦痛でしかなく、古謝の音色には如実にそれがこめられていた。ぎいぎい軋む不協和音に苦しみがこもる筝の音はいつまでも繰り返し天へと響き、そしてその音にこそ天の龍神は怒り狂っていた。

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