裏庭

 古謝はいつも心ゆくまで筝譜を眺めることができた。

 楽舎の裏手は木々に囲まれた広い庭で、譜のつまった倉庫が幾棟もたっている。

 譜をわざわざ見にくる楽人は少ないし、みんな忙しくて裏手は閑散としていた。

 夏の陽を白樺の木立がほどよく遮り、鳥たちが穏やかに歌っている。土道を踏みしめ、古謝は最奥にある倉庫を目指した。


(どこかにあるはずなんだ)


 探しているのは『神衣曲しんいきょく』だ。

 ここへくるきっかけとなった、風虎いわく「もっとも素晴らしい神の一曲」。

 後宮に保管されているというそれをなんとしても見つけ弾きたい。余命すくない古謝の望みはそれだけだ。

 楽舎の倉庫は五つあり、手前の四つはすでに調べつくした。途中で譜を読みふけり、気になる曲を練習したりして調べるのに時間がかかったが、残るは最奥にある一番古い蔵だけだ。

 白樺の林を歩き、けれど古謝は首をかしげていた。道に迷ったのか最後の蔵が見あたらない。ここまで林は一本道で五つの蔵は密集しているはずだった。


「どこー?」


 林を抜けた先にあったのはちっぽけな木小屋と庭だった。白花の夏ツバキの木と紅花のサルスベリの木が数本、風に揺られている。夏に似つかわしくない涼風が吹き、地面に紅白の花がふり積もっている。

 木陰に人が寝転んでいた。足音に気づいたのだろう、ゆっくりと身を起こした青年は「なんだ」とまた寝そべってしまう。


「どこから入ってきた? ここは禁足地だよ」

「きんそくち?」


 青年の姿をよく見ようと古謝は目をこすり近づいた。

 全身に黒衣を纏い、長髪を後ろでひとつに束ねた青年だった。

 白い肌に伏せがちの睫が影を落としている。

 鬱陶しげに開けられた瞼の下で水色の両目が煌めいた。空色の瞳は影にあっても輝き、透きとおる不思議な風合いだ。ガラスの盃にこういう色がある。天然のものとは思えない、稀にみる美しさ。

 真横から見下ろしていたら、青年は嫌そうに目を細めた。


「座りなさい。見下ろされるのは好きじゃない」


 木陰に座ると吹く風がなんとも心地よい。サルスベリのうす紅の花が落ちてくる。

古謝は地面に置かれた簡易筝を見つけた。持ち運べるタイプの小さな筝で、人の片腕ほどの木を削り出してある。簡易筝の上に落ちてきた紅白の花が何個も積もっている。

 青年は気だるげに笑った。


「前に会ったね。祝水しゅうすいの宴で。たしか君は――晧月こうげつの隣で筝をひいてた」

「晧月って?」


 青年は答えない。遠くもの思いにふけっていた目が、ふと驚いたように瞬く。


「俺のことわからない? 覚えてないの?」


 古謝はしかたなく目をすり、何度も青年の顔を見る。見覚えはある。けれど音楽以外に興味が乏しいため、誰なのか思い出せない。


「ごめん、わからないよー」

「そう。いや、構わないよ」


 青年は――柘榴帝は愉快だと笑っていた。

 この庭は後宮へとつながる禁足地、帝がひとりになれる憩いの場だった。人に見つからないようにここでは帝自身が薫香くんこう避けの黒装束に身をつつむ。地形のせいか強風の吹く庭には薫香は留まらず、柘榴帝はこの庭ではひとりの人間としていられるのだ。


「ここで何してたの?」


 古謝の無邪気な問いかけに柘榴帝はくつりと笑う。天帝としてではない対等な会話は本当に久しぶりだ。


「色々悩んでいたのさ。ひとりになりたくて」

「ふうん。俺、あっち行ったほうがいい?」


 言いながら古謝は簡易筝のほうを見ていた。柘榴帝は気づきながら無視した。


「いや。構わないから話し相手になってほしい。ひとりで考えるとどうにも気が滅入る」

「いいけど、そのぅ」

「弾いていいよ」

「ありがとー!」


 古謝はさっそく簡易筝の前に移動し、積もる花びらを払いもせずに弦をかき鳴らし始めた。


「これ、すごく良い音がする!」

「そう」


 古木から切り出した簡易筝は実のところ、銘まで与えられた国宝品だった。乳白色の螺鈿らでんで細かく沢蟹が描かれ『長思君ちょうしくん』と呼ばれて重宝されている。楽人にとってはすばらしい一品であっても、柘榴帝にとってはガラクタだ。気晴らしにと持ってきたものの気乗りしなくて適当に放置していたくらいだ。

 古謝は弦の調子を確かめて音の響きに夢中になっている。もはや柘榴帝の存在ですら忘れてしまったようだ。すこしずつ奏でられていく音に、だから木にでも話しかけるつもりで帝は口を開いた。


「最近、悩みがつきなくてね。国内では権力争いが絶えないし。文官も武官もみんな自分のことばかりだ。おまけに国外の蛮族も追い払わなきゃならない」


 古謝からの返事はなかった。代わりのように憂える筝の音が響いた。相槌代わりの即興曲は柘榴帝の悩みを体現したもの憂い調で、風に流され消えていく。なだめるような曲調につられ、帝の口も自然と滑らかになっていた。


「即位したとたんに美蛾娘にまとわりつかれる。父上とあわせてあの女、昔から気に食わなかった。ようやく追い出せると思ったら、今度は兄さまを盾にとられた」


 最悪だと柘榴帝は悪態をつく。

 柘榴帝は第二皇子で上に第一皇子の不花(ふばな)がいる。兄弟仲は非常に良く、兄が天帝となるなら譲位したいくらいの気持ちでいるのだ。


(でも叶わない)


 第一皇子・不花は十年前に失踪している。暗殺されたとも市井へ逃げたとも噂される。その行方を美蛾娘は「知っている」と言ってきたのだ。先帝が死に柘榴が跡を継ぐと決まったあの時、すぐに現れ耳打ちしてきた。


 ――妾は不花を匿っておる。あやつは後宮で生きておる。


 簡単に口を割る女ではない。問い方を間違えれば、即位したばかりの柘榴は権力を奪われてしまいかねなかった。向こうもあからさまにそれを狙っての発言だった。柘榴帝は弱りはて、後宮のすべての者を追い出さずにそのまま安置した。第一皇子・不花を探し出し見つけるために。不花さえ見つかれば、美蛾娘など即座に追い出してやるつもりだ。そうして後宮に目を光らせているうちに気づいてしまったのだ。


「まさか、晧月こうげつが後宮にきていたなんて」


 吐息の甘さを汲み、古謝は曲調をゆるやかに変えた。半音階の切なげな調べは悲恋と切なさを連想させる。感情によりそった音につられ、柘榴帝は自然と深い胸のうちを吐露していた。


「はじめは気づかなかった。印象があまりに違っていたし、昔はあんな目じゃなかったから」


 古謝と一緒に新しく入ってきた蓮という楽人のことだ。

 天河で宮女の棒打ちを見ていたとき、柘榴帝は双眼鏡越しにはじめて彼を目にした。かつての友に似ているとは思ったが、憎しみに満ちた鋭い目は見知らぬものに思えた。

 昔はあんな風じゃなかった。記憶の中の幼い晧月こうげつは穏やかで愛らしい瞳をしていた。

 彼が晧月だと気づいたのは先の宴でのことだ。龍笛を構えるその立ち姿、吹く前に片耳へ髪を払う仕草。音に集中しようとする瞬間だけその目から険が消え、本来の彼らしさが垣間見えた。それが間違いなく見知った友だとわかり、うれしかったのだ。また会えるとは思ってもみなかった。彼はすでに死んだと聞かされていた。


「俺のことも、さぞ恨んでいるだろう」


 吐き出す息に失笑が混じる。

 晧月が名を変え潜むように呂家に紛れていたのは、間違いなく先帝と柘榴帝のせいだ。武官だった彼の実家を九族殺し、彼をあんな風に変えてしまったのは、そうするように命じた先帝と原因となった自分のせいなのだ。

 彼の目を見たとき、並々ならぬ敵意と殺気に触れてそれを知った。「蓮」として後宮へ入ったのもきっと己に復讐するため。生きていたことを嬉しく感じると、そう伝えたら彼はなんと言うだろう。失笑するか刃物をつきつけるか、いずれにせよ昔のように近しい友として語らうことはできそうにない。


「戻れないなら、いっそのこと――」


 草をむしればむっとした青い香がたちこめ、風にすぐさらわれていく。


(秘めた恋慕ごと刈り取ってしまうか)


 今の柘榴帝にはそれができる。天帝である己にはそれが許されている。十数年あまりも想い続けてきた、友情以上に恋しく思ってきたこの劣情で、踏みにじってしまえばいいのか。


「死んでやってもいい、が」


 望み通りにこの命をくれてやってもいいのだ。ただ気がかりなのはその後のことだった。自分を殺し大罪人となった蓮がどのような処罰を受けるか。おそらく簡単には死ねないだろう。蓮が死よりもむごい罰を与えられると思うと、簡単に死んでやるわけにもいかないのだ。

 筝の音が止まっていた。古謝が睨むようにじっと見ている。


「死んじゃだめだよ。死ぬなんてだめだ」

「なぜ?」

「生きてるうちは命を大切にしなくちゃ」

「はっ、笑えるね」


 なにか言おうとしたのを遮り、柘榴帝は言ってやった。


「俺が何をしてきたか、君は知らないだろう。世の中には消えたほうがいい存在もある」


 柘榴帝は数えきれないほどの人を殺し生きてきた。直接、間接は問わず臣民も肉親もひとしく傷つけてきた。それが皇族に産まれるということだ。天帝となった柘榴はこれからも大勢を殺していくだろう。自らが消え失せれば、それこそ蓮の手で殺されてしまえば大勢の命が救われるのではないか。

 柘榴帝はなかば自棄になっていたかもしれない。天帝になったことの重圧とありとあらゆる敵の存在、そして現れた蓮の存在に動揺していた。


「死んだほうがいい人なんていないよー」


 古謝が静かにつぶやく。真剣な目で大人びた憂いを含み言われて、柘榴帝は息をのむ。


「死んだほうがいい人なんて、いない。生きられるうちはみんな精いっぱい生きるんだよー」


 不思議と言い返す気にもならなかった。古謝が悲しそうだったからかもしれない。

柘榴帝は重たげに腰をあげ、古謝の前から簡易筝を引き取った。


「もう、行くよ」

「うん……」


 名残惜しげに簡易筝を見やる古謝に「そうだ」と柘榴帝はわざとらしく振り返った。


「話し相手になってくれたお礼に望みをひとつ叶えてあげる。何が欲しい?」


 きっと簡易筝を求めるだろうと思っていた。言われれば与えてやるつもりで首をかしげ待っていた。


「俺、譜がほしい」

「ん?」

「『神衣曲しんいきょく』。知らない? 探してるんだ」

「知らない」


 古謝が口にした神の一曲を、柘榴帝はよく知っていた。兄である不花が消息を絶つ前、異様に執着していたのだ。

 神衣曲は不吉だ。どこにあるか所在もしれない、けれどたしかに後宮にあると不思議な気配を感じるときがある。おおやけにはされないが、皇族の死には常に神衣曲の影がつきまとう。その不吉さをかき消すため、巷間には伝説だと流布してあるくらいだ。

 肩を落とした古謝に「他には?」と聞いてみた。


「ないよ。俺の望みはそれだけ」

「それを手に入れてどうするの?」


 古謝の顔が輝く。言わずもがな、弾いてみたいのだ。

 柘榴帝は苦笑し踵をかえした。


「探しておくよ」


 中途半端な口約束は、風に吹かれて儚く流れていった。

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