合奏
女宮の庭園の一角に宴席が設けられていた。
寝殿づくりの建物に楽人のための檜皮舞台が用意され、池をはさんで対岸には天帝の席が配されている。招かれた各宮の男女・
蓮はまずそのことに失望した。柘榴帝を殺すには遠すぎる。真ん中に池があるので、この距離では物を投げても当たらない。そしてそれほど離れていても、帝の放つ異様な雰囲気はひしひしと伝わってきているのだ。
その日、姿を現した柘榴帝は黒御簾に隠れることもせず、目立つ金衣を見せつけて座った。すでに集っていた妃嬪たちの立礼をうけると、穏やかに微笑んでいる。
宴に参加したのは先帝の寵妃たちだった。皇子の生母や、男宮で叡明と名高い青年画家・
はじめて目にした柘榴帝はかなり若い。
年は二十歳ほどだろうか、余裕にあふれた優しい面差しだ。後ろへ無造作に流した黒髪は長く、風に揺られるたびに不思議な香りが対岸のこちらまでよこされる。
(これが薫香の匂い――)
古謝が梅園で嗅いだという麝香めいた香りが池のほとりには満ちている。あまやかで思考を脳から蕩かすそれは蠱惑的で抗いがたいものだ。嗅ぎ続けると危険な気がして、蓮は匂いを意識しないように努めた。
周りを見ると、こちら側の宮女はぼんやりと柘榴帝を見つめている――みな知らず薫香に惑わされている。池から離れていてもこれなのだ、側にいる者たちはどうなのかと見やると、対岸の位の低い宮女や女官はみな、鼻から口までを隠す黒布をしっかりと身につけていた。鎮官たちがつけているものと同じもので「薫香避け」だろう。後宮に控える鎮官は黒布で顔を覆っているが、その下にみな同じ黒布をつけているのだ。
ここ一週間ほど古謝を見張っていた魔醜座が、暇にあかせてその顔布について教えてくれた。薫香には人心を惑わす力があるので、そのそばに仕えることの多い鎮官たちは常に顔布覆いをしているのだと。
その魔醜座は今、すこし離れた所から古謝を見ている。表情は黒布で隠され窺えないが、いつも通り古謝を観察しているのだろう。その一挙一動を見逃すまいと何かを見据えるようにして魔醜座はこの一週間、ずっと古謝を見てきたのだ。
古謝の横では、風虎が切羽つまった声で最終確認をしている。
「いいか、何があってもひき続けるのだ。失敗しても止まるなよ。聞いておるか?」
古謝は話を聞いていないようだった。ぶつぶつと指さばきを確認している。
蓮はそれを見てほっとした。古謝が宮へ連れ戻されてから一週間、曲の奏法を教え続けたのは蓮だ。魔醜座は古謝が筝をひくことは禁じたが、指さばきの練習までは禁じなかった。筝の実物さえ使わなければ、譜を使っての練習や奏法の勉強はできたのだ。
古謝は極度の飢えと睡眠不足から回復すると、あれだけ嫌がっていた筝をまたひきたいと言いだしてもいた。
『楽が止まらない。音が弾かないと出ていかないんだよ!』
それを宥めすかして一週間、蓮はみっちりと教えこんできた。実際の弦を用いてはいないが奏法は完璧に理解させたと自負している。
(あとは三人で合奏してみるだけだが)
それが一番に難しい。誰のせいかしらないが、三人そろって練習する機会が一度もなかった。音の強弱、互いの吐息、楽の最初の一音ですらあわせたことがなく、ともすれば初めから音がずれてしまう可能性もある。古謝は初心者だし、あの倭花菜がどう出るかもわからない。
事態をそう分析している肌にちりちりと、つき刺さる視線を感じた。
顔を上げて対岸を見たとき、蓮は息が止まるかと思った。
柘榴帝がこちらを見ていたのだ。
目があった。ゆうるりともの問いたげにこちらを見つめる端正な面立ち。その両の瞳が、
(うすい水いろ?)
その色を、見たことがある。
よく晴れた日の澄みきった空か、あるいは高価なガラスの盃だっただろうか。
海よりも淡く、空よりは濃い。自然界にあるどの色とも違う、透き通るうす青を蓮はたしかに見たことがあった。どこで見たかは思い出せない。靄がかかる記憶の奥を蓮は無意識に辿っていった。
(前にも見たことがある。いまと同じように不思議な色だと思って。覗きこむようにじっと見て、それから――……)
それから、どうしたのだろう。
あれはどこでのことだったろう。
どこで――誰かと一緒だった気がする。そう、まるで夢のような場所。遠い記憶のなかでは。
あと少しで何かがつかめる、その手ごたえを探る意識が柘榴帝を見て途切れた。帝がじんわりと微笑みかけてきたのだ。嬉しげに、皮肉でも繕ってもいない、純粋に浮かび上がる笑みには脳天をつかれた思いだ。
慌てて目をそらし、古謝の横へ並びうつむいた。
脈拍が上がっている。鼓動の音がうるさい。
不安をかき消そうと龍笛を握るが、手はしびれて感覚がなくなっていた。指はつめたく震えている。頬と頭、それに目の奥が熱かった。
(きれいだった……)
胸の奥に感じた甘苦しさに蓮はぎょっとした。
ありえない。血が耳へと昇ってくる。すべての音が遠く水中にいるような浮ついた感覚で、全身が脈打つ血流にしびれている。この感覚は知っている。すくなくとも、これから殺す怨敵に向ける類の感情ではない。蓮は自らの身体の異常に怯えた。
(落ちつけちがう。ちがう、何も考えなくていい。今は)
そっと目を閉じ息を整えようとするが、指はかすかに震えをおびたままだ。異常をきたし制御しきれていないのは何より自分の心だ。その意味を理解することこそ、今は何より恐ろしい。
「ご機嫌よう。遅くなったかしら?」
だから倭花菜が到着して、蓮は心底ほっとした。これで楽の演奏に集中できる。わからないことは蓋をして、今は当初の目的をやり遂げればいい。
現れた倭花菜は異様な装いだった。
風虎が慌てて血相をかえ、つめ寄っている。
「お前、なんだその格好は!?」
倭花菜は紅服ではなく、型破りな黒い衣装に身をつつんでいた。すっぽりと足まで引きずる黒布の羽織一枚。珍しく飾りけのひとつもない黒服は「楽人は
泡をくう風虎にむかい、倭花菜は静かに落ちつき払って言った。
「風虎楽人、これはゆえあってのことです。あたくしは全力で楽を奏でるためにここにいる。失望はさせませんわ」
倭花菜の気迫に風虎は黙りこんだ。
高慢さはなりをひそめ、まるで倭花菜らしくない。まとう雰囲気には気概と圧迫感があり、彼女が真剣に楽を奏でるつもりなのだと伝わってくる。
風虎は顔をしかめたが、その意気には負けたようだった。
後宮楽人はすばらしい音のためになら何だってやれる人種だ。最高の一音を出すために命すら惜しまない、その気概を多かれ少なかれ楽人たちは秘めている。倭花菜の意図はわからずとも、その本気さは同じ楽人の風虎にはよくわかったのだろう。蓮とて今の倭花菜が生半可な気持ちでいるとは思わない。それは見たものすべてに伝わる一種壮絶な気迫だった。
池の対岸では不快を示した妃嬪たちがいたようだが、そちらは柘榴帝がやんわりとなだめた。柘榴帝は倭花菜に興味をひかれたようだった。吊り上がる目元が面白がっている。
蓮はそちらをできるだけ見ないようにして古謝の脇へと立った。
すでに三人とも演奏の準備は整っている。あとは風虎が合図をするだけだ。いよいよ楽が始まる。
場がしだいに静けさを帯びていく。
風虎が全員を見て準備が整ったかを確認する。蓮、倭花菜、そして古謝にはとくに念入りに。片手があがり「楽を始めよ」と合図があった。
曲の一音は古謝の筝からだ。
合奏の成否は最初の一音で決まるものだ。三人で息をあわせるには間と拍数を一致させねばならない。その初めの一音にすべてがかかっているともいえる。息をすいこんだ古謝が、指を伸ばし弦をひこうとした――そのときだった。
だん、と床を踏み鳴らして倭花菜が一歩前へ出た。
「っ、――!」
「な――」
曲のリズムが乱れた。
互いに測り、とろうとしていた間合いが消えてしまった。古謝が一音をひく前から、間を奪った倭花菜が前に出る。
朗々とした歌声が空気を揺らしていく。あたりに倭花菜の気配が満ちた。
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