ざくろ

 柘榴帝は意識を取り戻していた。

 外が騒がしい。ひどく喉が渇き「水を」と所望しても誰からの返事もない。ふらつく身を起こし、自ら水差しを探し出し喉を潤した。息をついたとき、手に持った椀の水が不可解な振動に波紋をつくっていた。


「地震?」


 すぐに収まるだろうと思った揺れはいっこうに引かず、しだいに酷くなる。それになにやら異様な音が外から聞こえてきていた。

 柘榴帝の寝所は建物の二階にある。下へ降りるのも億劫で、外を見渡せる大窓を開いた帝は瞬間に息をのむ。


「な、――っ!?」


 強風が身を押した。とっさに倒れそうになったのを踏ん張れば、下はひどい有り様だった。

 鎮官、衛兵、国軍の将兵が入り乱れ、広場は折り重なる死体と血で歩く場所もない。かがり火が倒れて周辺の建物に燃え移り、安寧宮のほうにも火勢がおよびはじめている。けれど煙の匂いをまったく感じないのは、すぐ目の前に小さな竜巻が近づいてきているせいだ。死体と武器、血、煙をも巻き上げる異様なものが――人智をこえた何かが近づいてくる。その中心に人が歩いているように見えたが、ここからではわからない。竜巻の勢いと進路の先にいる者たちはうろたえている。

 とっさに降りようと身をかえしかけ、目に入った人影に愕然とした。広場の端で馬から振り落とされて固い石畳に這いつくばる少年の姿。その両腕の先はない。血濡れた包帯がほどけかけ、風にあおられた黒髪が流れて白い顔を覆い隠してしまう。柘榴帝は何も考えられないまま階段を駆け降りていた。


「蓮!?」


 たしかに死体を確認したはずだ。けれどあの針山で見た遺体は顔が潰されていた。高所から落ちたせいだと思っていたが、もしあれが蓮でなかったとするなら。あの死体が蓮でないなら、今あの広場にいる彼は――……。下へ降りた途端、外から誰かが飛ばされてきた。


「きゃっ!?」

「っ、倭花菜? どうして」


 とっさに支え受け止めたのは気を失った倭花菜だ。何が起きたか聞く暇もなく、眼前にせまる竜巻から歌が聞こえはじめた。言葉を失い、茫然と柘榴帝はその場に立ちすくむ。



 〽つれづれと散る かなわぬ時に

  夜粛々と 夢や咲く

  いくせ来こしみ かいなを鳴らし

  祝いの風に 逆らうまじと



 *****



 蓮は強風のなか、魔醜座の助けを借り前へ進んでいた。竜巻に近づくにつれて意味不明だった音に言葉が見え、古謝の声として耳に届き始める。


(まだ届かない、あと少し!)


 前を歩く魔醜座の背をぴったりと追い一歩ずつ風の中心へと近づく。

魔醜座は途中まで風から庇うように前を進んでいたが、あと少しで古謝に追いつくという距離で、ついに足を止め振り返り叫んだ。振り向いたその声は強風にかき消され聞こえない。けれど口の形から『ここまでだ』と言っているように思えた。


「どうして、あと少しなのに!」


 互いの声は風に飛ばされて届かない。聞こえるのは不可思議な歌だけで、先を歩いていく古謝に気ばかりが焦る。


(早く止めないと)


 すると何を思ったか、魔醜座は腰から自身の剣をひき抜いた。それで次の瞬間、ひと息に自らの胸を突き刺した。飛び散った血飛沫が勢いよく降りかかってきて、後ろにいた蓮は唖然とそれを浴びていた。魔醜座は前へ倒れ、自身を突き刺した剣をそのまま地面へ勢いよくつきたてる。

 瞬間に風と空間が割れていた。剣先から一直線に空気が割れ、圧迫感が消えていく。ようやく消えた風圧に蓮は浅い呼吸を繰り返した。


「い、け……!」


 剣にすがりつくように魔醜座が割れた空間を見据えている。彼が古謝のひき起こした竜巻を一時的に止めたのだ。その命と引き換えに――あと数分で彼の命がつきることは、傷の深さと剣の刺さった位置を見ればすぐにわかった。魔醜座が死ねばまた元のように竜巻が戻るかもしれない。そうすれば古謝まで続く道のりが途絶えてしまう。蓮は震える脚には気づかないふりで一心に駆けた。


(あと少し、あとすこしだ!)


 腕が届く距離まで来て、けれど蓮はぎょっとする。古謝を止めるために伸ばせる腕がもうないのだ。掴める指が自分にないのに、どうやって止めればいいのか。



〽ゆびおり数える 罪ぶかき身に

 ただひと振りの 月だけが聴く

 はるばる辿りきた 道なき道 

 かぎりある今日に 

 およばず積み越す夢浮橋



 背後で魔醜座が倒れる気配がした。

 後ろから竜巻の風が戻り、空間が内へと閉ざされていく。あと数瞬でこの身は吹き飛ばされてしまう。

 古謝の進む先に、風を透かして安寧宮の前に立つ柘榴帝の姿が見えていた。青ざめた顔で倭花菜を支え、信じられないといった面持ちで自分を凝視している。

 蓮はとっさに古謝に体当たりした。前へとつんのめりかけた古謝は踏みとどまったが、そこでようやく振り返ってきた。怪訝とひそめられた目に曲を邪魔された怒りが浮かんでいる。古謝は演奏の邪魔を許さない。怒りが行動に飛び火する前に蓮は口を開いた。


「もういい、すばらしかった」


 本当は「止めろ」と言うはずだった。けれどぽろりと零れたのは曲に対する賛辞だった。

 一瞬、息が止まるかと思った。それくらい気が張りつめていた。

 古謝がまた歩きだしてしまったら、もう止めるすべはない。その時は自分だけでなく倭花菜も、柘榴帝もみな死ぬことになる。魔醜座が息絶えた今、古謝を止められる人間がいるかわからないのだ。

 蓮は自分を叩き壊したくなった。どうして曲に対する賛辞など送ってしまったのだろう。たった一瞬で伝えられる言葉は限られている。ただ「止めろ」と言えばよかったのに。


「ありがとー、うれしい」


 にっこりと、古謝は満開の笑みをみせた。信じられないほどにいつも通りの古謝だった。筝がひけないと文句を言い、怖い嫌だとわめき続けた幼すぎる古謝。

 前へと一歩踏み出しかけたその足が、砂のように崩れていく。筝を奏でようとした指がぼろぼろと崩れ風に舞う。竜巻の余韻にさらわれるようにして、目の前で古謝のすべてが崩れていく。これだけの威力をもつ曲を奏で、竜巻をも動かす身が無事であれるはずもないのだ。神衣曲は古謝の命と残された生命力を使い奏でられていた。

 古謝は疲れたように目を閉じる。ふせた瞼ごと風に溶け消えていくのを、蓮はうずくまりただ眺めていた。

 天高く悲しげな鳴き声がした。真上を飛翔する龍神は、古謝の死を知るや風にのった欠片を拾い集めて雲上へと昇っていく。その姿が完全に消えると黒雲が晴れ、清浄な白明がさしこみはじめた。雲間からのぞくのは月光だ。

 ずいぶんと静かになっていた。みな動けずに立ちすくんでいる。

 何もかもを巻きこみ消えた竜巻と音の正体がなんだったか、判別できずに戸惑っているのだ。最初に声を上げたのは息をきらせた美蛾娘だった。


「蓮楽人、生きておったのか!? そやつを殺せ、その謀反人を」

「黙れ!」


 柘榴帝の恫喝が響きわたった。ゆっくりとした足取りで帝は蓮のほうへ歩いてくる。それが蓮であると確かめるようにじっと見て、美蛾娘へ向き直る。


「その女を捕らえろ。大罪人だ、生け捕りにしろ!」

「ッ!」


 逃げようとした美蛾娘の行く先を、広場の外から来た麗武官が塞いだ。


「陛下、御無事で!?」


 すぐにとり押さえられた美蛾娘は、地に押さえつけられてもあがき続けた。


「呪ってやる、殺してやる! うぬら全員苦しみ死ね、この謀反人どもが――ッ!?」


 美蛾娘は突如苦しみ、白目をむいて呻きだした。兵たちに押さえられた身が海老ぞりになり大きく痙攣する。


「毒か!」


 すぐに麗武官が吐き出させようと屈みこんだが、喉奥へ手を差し入れた瞬間にその手を引っこめた。美蛾娘の体、その全身のあなから汗のように血が滲みだしていた。


「う、これは――」

「ひっ」


 兵たちが驚き離れる。血を吐き涙袋から血涙を、鼻や耳、手先からも珠の血汗を滲ませて、美蛾娘は真っ赤に染まりもがき苦しんだ。


「な、ぜ……わらわは、死な、ぬ。まだ……」


 最期の声は血涎にくぐもり、ごぼごぼと泡に埋もれ聞こえなくなった。

 その場に魔醜座がいたならば、怒り狂った羅刹女神が美蛾娘の全身を針で刺し貫くところを目にしただろう。美蛾娘は神に約束した対価を支払えなくなった。せめてもの代償にと、羅刹女神はその魂をくびり殺した。広場の石畳にどこまでも血液が染み出していく。全身が血となり溶けくずれたように美蛾娘は壮絶な死を迎えた。

 夜に燃えていた火がしだいに消え去り、あたりに正常な空間が戻ってくる。白みはじめた夜空に生き残った人々は夜明けを知った。


「蓮」

「あ、――」


 ふらふらと歩みよってきた柘榴帝に、蓮は顔を合わせられず視線を落とした。なにから言えばいいのか、伝えたいことは山ほどあるのに言葉にならないのは、以前とまるで変わらない。


「すまなかった。蓮、蓮」


 口を開く前に帝がくずおれるようにして身をよせてきた。抱きついてきた身は震えている。泣いているのか。抱えることもできない両手を見て、蓮は意志を伝えるために口を開いた。


「俺こそ、……あの時。助けにきてくれて、ありがとう」


 手で抱きとめられないから言葉にするしかない。


(もう笛は弾けない。楽人としては生きていけない)


 けれど言葉は残された。そのための意志も気力も、覚悟もまだ失ってはいない。

 白みはじめた空の下、事後処理に動く文官や武官、楽人たちの声がする。安否の確認、捕らえた蛮族の処理、城下に起きた被害をまとめるために生き残った者が走り出す。

 蓮は頭のなかに残された古謝の笑顔と音楽を繰り返し思い続けていた。耳にこびりついて離れない清浄でうつくしい音の響きを。


「蓮、どうした。何を考えている?」


 そっと身を離した柘榴帝に、蓮は首を振る。


「いや。ちょっと……譜を」

「譜を?」

「書きたい。今すぐに」


 それが何を意味するか悟り、柘榴帝は逡巡のあとに了承した。


「わかった。誰か!」


 混乱収まらぬうちからすぐに紙と筆を用意させた柘榴帝と、そこに口ずさんだ歌を記させていく蓮を、意識を取り戻した倭花菜は呆れ顔で見ていた。


「信じられない、あの人たちにこの国は任せられないわ。誰か、あたくしに報告をあげてちょうだい!」


 しだいに明けゆく空は快晴で、そこに蓮の口ずさむ歌が溶けていく。

 記憶が消えぬうちにと刻んだそれは、古謝の音を再現するにはほど遠い歌となってしまった。人の身にあまる美しい音を、人であることを捨てた古謝が奏で、人より秀でた蓮がそれを万人に適す形に翻訳したといえるだろう。

 記された曲は禁忌とされ、後宮の奥深くにしまわれた。けれど不思議なことに、古謝の奏でた曲は人語を介し、国中でまことしやかに歌われるようになった。歌詞は正確でなく多様性に富み、様々な亜流歌が増えた。人智をかけ離れた美しさは消えたが、風流な音色は後世に残されている。

 人々はこの歌に「神意が宿る」と信じ、ことあるごとにお守りのように歌い継いだ。その統治時代にあやかり『ざくろの地歌』と呼ばれたこの曲は、のちに烏羅魔椰うらまや国にとって安寧と幸福の象徴となる。

 その後、病弱となった柘榴帝は寵妃・蓮を生涯そばにおき、退位するとともに位を実子に譲った。後見には倭花菜がたてられ、国は誇り高き賢母のもと落ちつきと平安を取り戻していく。人々は安寧の治世を称えて平穏を喜び、今日も歌を唄い継いだ。

 街ではまだ幼いおかっぱ頭の子どもが、簡易筝を斜めにかけて朗々と歌声を響かせていた。聞くともなしに通り過ぎる人々の耳に唄は届き、風にふかれて蒼穹の空に上がっていく。



〽ゆびおり数えた 罪ぶかき

 ただ他でもない 君だけが聴く

 はるばる辿りきた 道なき日 生きる命に

 届けと踏み越せ夢浮橋



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神触れ人は後宮に唄う 冷世伊世 @seki_kusyami

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