紅梅の香り
古謝は
後宮は広く右も左もわからない。川べりまで来ると、まん中に一本だけ大きな橋がかかっていた。古謝は反射的にそれを渡った。
男宮と女宮を結ぶこの橋は、いつもは鎮官が武器を手に控えている。渡る者の身元はすべてあらためられ、後宮内において男女間の過ちが起きぬように厳しく見張られる決まりだ。橋を渡ること自体は許されるが、みな恐れてめったに行き来しない。男が女宮にいて、また逆の場合でも、誰かに見つかり言いがかりをつけられれば余程のことがない限り死罪になってしまう。天帝以外との交わりは厳禁だ。それを知っているからこそみなこの橋をけして渡らない。
しかし今日にかぎり橋のそばに鎮官たちはいなかった。楽人選抜で美蛾娘にかり出されたことで災難を浴び、鎮官たちも混乱し命令系統が乱れたのだ。
古謝は誰にも見つからずにその橋を渡れた。渡ってしまった。
女宮の中はしんとして人の気配がなかった。午後のこの時間、後宮は昼寝に入る。みな部屋うちにこもり仮眠をとるのだ。女宮の御花園(ごかえん)まで誰にも出会わなかったのは本当に幸運なことだった。
御花園には春夏秋冬、さまざまな花が咲き乱れている。寒風のなか凛々しく咲く梅園は今が見ごろで、紅梅の色濃い香りが古謝の鼻をくすぐってくる。
「綺麗だなー」
三味線があれば花を称え唄ったのにと思っていた古謝は、はたと足を止めた。
梅の木影でふたりの宮女が睦みあっていたのだ。寒空にうす絹だけで、躰の輪郭すら透ける格好の年若い乙女たちが舌を絡めあい互いのふくよかな胸をこすりあっている。
「愛してる……愛してる、
青玉と呼ばれた宮女が耐えられないとくぐもった喘ぎを漏らした瞬間、古謝は慌てて木陰に隠れた。気づかれてはいないが心臓が大きく鳴った。何事にも鈍感な古謝だが、僧院にいた頃は技芸屋へ演奏のために通っていた。だから目の前の宮女たちが何をしているかはわかる。
街の技芸屋には遊女や男娼たちがいて、鈍い古謝にも男女の神秘を教えてくれた。考えの幼い古謝はそれらのことを本当には理解していない。ただ遊女や男娼たちが客をとるとき、運悪くそういった場面に鉢合わせることはあった。身体を互いにこすりつけあい、口を重ねて舌を絡め、苦しげな吐息をもらす場面だ。そういったときの対処法は遊女たちから教えられていた。
(まずは身を隠す。見なかったふりでそっとその場を立ち去る)
古謝はそれを実践した。木陰から音をたてず身を動かそうとして、――なぜかできなかった。体が痺れたように動かない。視線を絡み合う宮女たちから外せない。
(なんで!?)
宮女たちの痴態に興味があったわけではない。むしろそういった事象は内容を理解する前に技芸屋でたんと見せつけられ、慣れていた。だから古謝をその場に縫いとめたのは他の何かだ。冬の空気自体が重みを増し、へばりつくように体を押さえつけている。一歩たりとも動くなと、まとわりつく透明な気配が命じているようだった。
そのとき、ようやく気がついた。
匂いだ。
あれほど強かった紅梅の香りがいつの間にか消えている。代わりに空気に満ちるのはいびつな至上の香りだ。嗅覚はすでに麻痺し、それがいつから漂っていたのかわからない。
古謝は息苦しさをおぼえはじめていた。
体が熱い。腰の奥がしびれ、両目にしらず涙がたまった。痺れるようなその感覚は間違いなく快感だったが、古謝にはそれすらわからない。ひたひたと身のうちから悪寒を呼び起こされるのは、この甘い匂いのせいだ。自分を縛るそれがどこからくるのか必死でその元を探った。
木陰では宮女たちが先ほどより激しく絡みあっている。
「ずいぶんと楽しそうだね」
そこへ低い笑い声とともに現れたのは、金一色の衣をまとった青年だ。
歳は二十ほどだろう。長い黒髪をうしろでひとつにまとめた美丈夫である。
ゆるやかな衣が風に揺らぎ、異様な香りがひとしお濃くなった。
動けない古謝はしかたなく木陰から青年の容貌を観察していた。
健康的に日焼けした肌としなやかな体つき。背は高く、くっきりした目鼻立ちだ。口もとは薄情そうな笑みの形だった。印象的なのは青い瞳で、ガラス細工のように透き通るきれいな水色だ。その爛々とした異様な輝きは遠目にもわかる。
現れた青年に宮女たちは凍りつく。青年が両袖をひらとふると、空気に怪しげな匂いが満ちた。
「うっ」
古謝はえずきそうになった。なんとか片腕で鼻と口を覆ったが、足は痺れてまともに動かない。漂う匂いはけして嫌なものではない、むしろとても良い香りなのに。
(くらくらして背筋がゾクゾクして、腰が抜ける――)
それは麝香にも似た香りだった。天帝の御身から発される
人を惑わせ性的に高め、あらゆる者を帝に夢中にさせてしまう。調合されるものではなく現世神たる天帝の体躯から自然と放たれるものだ。
間近でその香りをくらった宮女たちは、ぼんやりと頬を染め青年を見つめていた。女宮に青年がいることの異様さも、自分たちが厳罰に処される行いをし、それを見られたことも頭から吹き飛んでいるようだった。彼女たちの理性はかき消され、蕩ける熱情だけが青年へと向けられている。
青年は喉奥でつややかに笑い言った。
「君たち、愛しあってるの?」
囁くような美声に宮女たちは陶然と頷いた。すでに思考は放棄され嘘をつくことも浮かばぬらしい。
「ふうん。じゃあさ」
青年は手前にいた宮女にするりと口づけた。頬に手をあてふくよかな胸先をそっとなぞっていく。それを見たもうひとりの宮女は夢から醒めたように愕然とした。青年がしばらくして身を離したとき、口づけられたほうの宮女はその場にくずおれていた。
「もっと?」
屈んだ青年がやさしく問えば、くずおれた宮女は躊躇いなく何度も頷いた。
「ど、どうか。どうか!」
涙目ですがりついてくる宮女の手を青年はつめたくふり払った。笑っている。
「なら、彼女を棒で打ち殺してよ。俺が天河に連れていくから、みんなの前であの子を打ち殺して。君の手で」
地にくずれた宮女がひぅと悲鳴をあげた。もう一人の宮女はそれを聞くや走り去っている。
青年はにこやかに笑っていた。
「大丈夫、ちゃんと捕まえさせるから。さあ立って。ともに天河へ行こう」
庭園の端から武装した黒ずくめの鎮官たちが現れ、宮女を無理やりに立たせ引きずっていく。
「お、お願いです
青年はゆるやかにため息をついた。
「もう許したよ。知ってるだろ? 天帝以外と交われば君たちは即死刑だと」
青ざめる宮女は鎮官に両腕をとられ、茫然と黙りこむ。
「安心して」青年は人好きのする顔で笑った。
「君のことは生かしておく。だからそのためにも君の愛する宮女を君の手で、棒で打ち殺すんだ。いいね?」
宮女は答えなかった。そのまま土の上を無惨に引きずられていくのを、古謝はしばらくその場で震え見ていた。
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