第33話  雨が降る中で見るモノ

    1


 シトシトと――雨が降っていた。


 三月の空を覆う灰色の雲から。

 降り続く冷たい滴が、世界に、街に、わたしに降り注ぐ。

 その滴がわたしの身体の熱を奪っていく。



 「はぁ…はぁ……」


 それでも、わたしは走る。走り続ける。

 息を切らしながらも、全力で。

 灰色に染まる街の中を、雨に降られながらも。

 濡れて肌に張り付く服の重さを、不快感を覚えながらも。


 「オギャ―!オギャ―!」


 ――泣き声が聞こえる。


 それはわたしが胸に抱く、赤ちゃんの声。

 わたしにとっての全て。

 わたしにとっての幸せの形。


 わたしは逃げる、逃げ続ける。


 ――そう、わたしは逃げていたのだ。


 わたしの手から幸福を奪おうとするモノから。


 ――それは長い黒髪を靡かせた、物憂げな瞳をした少女だった。

 その手には、不可解な蒼白いヤイバが握られていた。



 街外れの建設中のビルの中へと、逃げ込む。

 ここならば暫くの間、身を隠せると思ったからだ。

 階段を昇り、ある階の部屋の中へと駆け込む。

 壁に背を付けて座り込む。そうして未だ、落ち着かない呼吸を整える。

 それでも呼吸はまだ荒い。

 心臓の鼓動がはっきりと聞こえるくらいに早く、高い。

 濡れて、張り付いた前髪を払う。


 泣き声は止まない。

 わたしの腕の中の子供が――泣き続けているのだ。

 わたしはその子の泣き声が止まるように、追いかけてくる彼女に、その声が聞こえてしまわないようにと必死にあやす。

 子守唄を唄いながら。

 しばらくすると、子どもの泣き声が収まっていく。

 幸せそうに、微笑んで眠りについてくれる。


 ――ああ、良かったと思う。


 幸いにもこの子は雨にも濡れていない。

 身体も冷やしてないし、風邪をひくこともないだろう。

 子供が幸せなら、母親であるわたしだって幸せなのだから。


 部屋の隅に腰掛けながら、部屋の中を見渡す。

 剥き出しのコンクリートの壁、まだガラスの付いていない窓、露出している電気コード、ガランとした空間。

 その造り掛けの空間はわたしには、壊れゆく廃墟のようにも映った。

 この空間がこれから、本当に人の生活する場所のようになるのだろうか?

 わたしにはユメのように思えて仕方なかった。

 そしてわたしは思うのだった。


 何故、わたしはこんな場所に逃げ込んでしまったのだろう?


 わたしを追いかける、あの少女から逃げるのにはむしろ人通りの多い場所を選ぶべきじゃなかったのか。人の目がある場所ならば、彼女も人を襲うことも無いだろう。

 それなのに、わたしは何故?


 それは――きっとあの不可解なヤイバを見てしまったから。

 あのヤイバはきっと壊してしまう。

 わたしの全てを。

 わたしの幸せの形を。

 わたしのユメを。


 それを普通の人では、止められないと思ったから。


 ワタシ、わたしのユメ。

 愛するひとと結ばれて、子供を生んで三人で幸せに暮らす事。

 なのに――あのひとは交通事故で死んでしまって。

 悲しかった。わたしの世界が、わたしの全てが、わたしのユメが壊れていく音を聞いた。

 それでもわたしはその不幸を受け入れた。

 あのひとはわたしに、ユメのカケラを残してくれたから。

 幸福のカケラを。


 「それは――あなたが見ているユメというマボロシよ」


 声が聞こえた。

 頭を上げれば、そこには彼女がいた。不可解な蒼白いヤイバを持って。

 そのヤイバが私には死神の鎌のように映った。


 ああ――彼女はこんな雨の中だというのに、身に纏った学校の制服を濡らすことも無く現れたのだ。

 その艶やかな黒髪が揺れる。

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