第37話 雨にふたり、夢をまた見る時
5
浴室で蛇口を捻る。するとシャワーのヘッドからお湯が出て、温かい滴が私の身体に降り注ぐ。それを浴びて私はようやく生きた心地を覚えた。
――殻木田の部屋を訪れた直ぐに後。
殻木田くんは私にシャワーを浴びるのを勧めて、洗濯機と乾燥機の使い方を教えてくれると、代わりの服を買ってきますと言って、脱兎の如く部屋を飛び出して行った。
自分で誘っておいてなんというか、真面目というか、ウブというか。
うん、でも殻木田くんらしくて、全然嫌じゃなかった。
むしろそんな彼を見て、初めて男の子の部屋を訪れて緊張していた私の方が落ち着いた。
あ、でも服を買ってきてくれるといっても、そもそも殻木田くんは私のサイズが分かるんだろうか?
そんな事を考えていると、自然と顔が綻んでいく。
あの二月の怪異以降、時々彼と街で出会うことがある。その時はふたりでお茶をしたり、少し街を歩いたりもする。なんとなく危ない事に首を突っ込もうとしていると感じたら、それとなく釘を刺すこともあった。
四月になれば、彼は私と同じ学園に通うことになる。先輩と後輩になる。そうしたら彼と過ごす時間はもっと増えるんだろうか。
浴室に備え付けられた湯気で曇った鏡を指で拭いて、自分の顔を見る。
そこにはお湯を浴びて火照った自分の顔が映っている。
殻木田――順平くん。
ふと、思う。私はどうしてこんなにも、彼の事を考えているんだろう。
それは今日だけじゃない。彼と会って以来、学校の授業を受けている時や夜に眠りに付く前にも〝刈り取り〟を行う前にも殻木田くんの顔が浮かぶ事がある。
それはあの二月の怪異を通して、彼の事を深く知ってしまったから?
それとも殻木田くんが、魔女である前にひとである私に微笑んでくれるから?
あるいは――今日、雨の中で出会えたから?
殻木田くんの笑顔を思い出して、心臓が早鐘を打つ。
私を先輩と呼ぶ声が、胸に甘く響く。
ああ、どうしようもなくのぼせているなと思う。
私は浴室を出ることにした。
浴室を出ればそこには、これを着てくださいというメモ書きとビニールの袋に包まれた新品のシャツとチノパンがあった。
用意された、これまた新品のバスタオルで身体を拭きながら、洗濯の終わったものの中から下着を先に出して、乾燥機に入れて乾かした。
こればかりは変えようがないから。
シャツとチノパンを着てみれば、少し大きかった。
◇
洗面所を出て、中々乾かない髪の毛をタオルで拭きながらダイニングに入る。
自分の長い髪は嫌いではないけれど、こういう時には面倒に思うこともある。
ダイニングには、どこか落ち着かない様子の殻木田くんがいた。
座っているイスを揺らしたり、窓の外を見てみたりしている。
「殻木田くん」
彼に声を掛けると、ビクリと震えてこちらに向き直った。
「せ、先輩……」
すごく硬い笑顔。それから、その頬にある傷を搔いた。
なんだか殻木田くんが可愛く見えた。
「緊張してるの?」
「ええっと、それは、まあ……」
「あなたから私を誘ったのに?」
「それは、言わないでください!」
なんだか、泣きそうな顔になる。
そんな彼に近づくと、私は彼の手を握る。
「そんなに緊張しないで、殻木田くん。私はあなたにすごく感謝をしているの。偶然とはいえ、雨に濡れていた私を見つけてくれた。色々、用意もしてくれた。気を使ってくれた。それらのひとつ、ひとつがうれしいの。ありがとう」
わたしはできる限りの笑顔で彼にお礼の言葉を告げる。
「先輩、それなら……良かったです」
彼もそう言って笑ってくれた。
それから、何か温かいものを淹れてきますね、と言って殻木田くんはリビングを出て行った。
ベッドに座って彼を待つ。
その間に部屋の中を見渡す。1DKの小さい、ひとり暮らし用の部屋。
あまり物の無い部屋。テレビや時計といった生活必需品や教科書や鞄、制服などといった学業に必要な物、それ以外には数冊の本とロボットの人形、剣道具ぐらいしか見当たらない。
他の男の子の部屋は分からないけれど、殻木田くんの部屋はガランとしていて、どこか寂しい印象を受けた。
そんな部屋は彼の過去を――私に連想させた。
交通事故で家族を喪った過去を。
「先輩、お待たせしました――って、なんか俺の部屋、おかしい所ありますか?」
部屋を眺めていた私に殻木田くんが声を掛ける。
「いえ、なんでもないのよ」
私は殻木田くんに視線を移す。
「先輩、どうぞ。熱いから気を付けてください」
差し出されたマグカップを受け取る。少し熱い。息を吹きかけてから、口に含む。何も加えられていない牛乳の味。
「ホットミルク?」
「ええ、身体が温まりますよ」
そういって、彼もマグカップを口に運ぶ。
久しぶりに飲むその味は温かくて、どこか懐かしい気持ちを覚えた。
――そう、まだ母と暮らしていた時のような。
ホットミルクを飲み終えて身体が温まった後、私は強い眠気を感じた。
眠気に目蓋を擦り始めた私を見て、殻木田くんは言った。
「少し寝ていきますか?」
私は頷く。その言葉に甘える事にした。
ベッドに横になる。知らないシーツの感触。慣れない枕。
けれど、不安はなかった。
それは――多分、目の前に殻木田くんがいてくれるから。
彼はベッドの横でイスに座り、本を読んでいる。
背表紙を見ると、どうやらマンガらしい。
そんな殻木田くんの様子を、うっすらと眺めていた。
「先輩、眠れないんですか?」
殻木田くんがわたしを見て言う。
そうかもしれない、と答える。
「どうしたら、眠れそうですか?」
そう言って彼は優しく笑う。
誰かの為に在りたいと思う彼は、いつもそんな風に笑う事を私は知っている。
それはきっと、誰に対してでも同じように。
いつもそんな風に人助けや誰かの手伝いをしていて。
もしかしたら今日、私を助けてくれたのもその行いの延長上の事かもしれない。
どうしてだろう。私にはそれが面白くなく感じられて、彼が慌てる姿が見たくなった。
「それなら殻木田くん、手を出して」
「こう、ですか……?」
「ええ、いいわ」
差し出された手を取る。
そして――その手の甲に口付けた。
「せ、せ、先輩!」
殻木田くんが顔を赤くして、慌てる。
ああ、なんでなんだろう。
そんな風に慌てている時は、私だけを見ていてくれる気がしてもっと意地悪がしたくなる。
その笑顔をもう少しだけ、自分のものにしたくなる。
「殻木田くん、子守唄を唄って欲しいのよ」
私は彼にそう頼む。
「こ、子守唄ですか、まあそれなら……」
次は何をされるのかと、身構えていた殻木田くんが胸を撫で下ろす。
「俺、あんまり歌は上手くないですよ?」
「構わないわ」
そう言うと殻木田くんは一拍置いてから、唄ってくれる。
確かにそんなに上手くない。
けれど、それは私のためだけに唄ってくれているもので。
殻木田くん、あなたは知らないでしょう。
私はあなたといるとすごく安らげるんだって。
それなのに時々、あなたの事が胸の中を占めてしまう事があるんだって。
その感情の名前は――
外では雨が降っているのだろう。
それでもその滴も雨音もここまでは届かない。
殻木田くんの子守唄を聞きながら、私は眠りに付いた。
幼い頃に聞いた懐かしいメロディ。
その眠りの中で私はお母さんのユメを見た。
――ずっと幸せだった日々の夢を。
虚空の【セカイ】と魔女 白河律 @7901
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