第10話 傷と痛みと狂気の怪物
身体を床に付けたまま、声のした方を――部屋の入口を見上げると、そこにはわたしの通う学校の制服を着たひとりの男の子がいた。
暗がりでよく見えないけれど、その男の子の頬には傷がある。
わたしは彼を知っている。
確か、クラスメイトの――殻木田順平君だったと思う。
「殻木田……君?」
問いかけに、彼は頷く。
「鈴木さん、大丈夫?ケガとかしてない?」
そう言って殻木田君は、とても心配そうにわたしを見ている。
その目を見ていると、不思議と警戒心は起きなかった。
彼の問いかけに頷くと、ふらつく身体を起こした。
「よかった。俺は君を探していたんだ……」
そう言って、彼はゆっくりとわたしに近づいてくる。
「――来ないで!」
衝動的にわたしは叫んでいた。
「誰に、誰にそんなこと頼まれたの――!」
どこかで、答えの分かっているはずの問い掛けをぶつける。
わたしの声を聞いた殻木田君は歩みを止める。
意外にも、その顔に動揺は見えない。
「君のクラスメイトの友達と、それから――君のお母さんから」
その答えを聞いて、わたしの胸に込み上げてきたのは、やはり激情。
「帰って!殻木田君、そして伝えて、母さんに。わたし帰らないって!」
殻木田君を睨み付けながら、叫ぶ。
「――どうして?」
「わたし、わたし、母さんに会いたくない!どうしても!」
「お母さん、心配してたよ。もう何日を帰って来ないって、警察に探して貰っても見つからないって、どこにいるのか分からないって、泣いてた」
殻木田君は、静かな声で答える。
「それでも。帰りたくない……」
わたしに深く傷を付けたのは、母さん――あなた。
だから、触れないで欲しい。
その視線から目を逸らしながら、答えた。
「なら、帰るのは止めようか」
そんな事を、さらりと彼は言う。
「え……」
一瞬、呆然となった。
「鈴木さんがそこまで言うって事は、何か帰りたくない理由があるんだよね……?なら無理には連れて帰れないかな」
殻木田君を見た。彼は優しい目でわたしを見ていた。
「どうして……殻木田君はわたしを探しにきたの?」
暫くの沈黙の後、わたしは聞いた。
「まずは君の友達に頼まれたからかな。少し前に弟が亡くなってから、どこかずっと暗かった。心配はしてたけど、いなくなってしまうとは思わなかったって。その後、君の家に行ってお母さんからも話を聞いたよ」
「殻木田君はなんで、そんな……」
言い淀む。
わたしは思い出す。殻木田君は大概の頼み事は断らないって事で知られていて、その事で他のクラスにも違う学年にも多くの知り合いがいた。見方によってはいい様に使われているとも言えた。
「でも、だからって……」
こんな事にまで関わろうとするだろうか?
「俺も心配してたんだ。鈴木さんが学校に来なくなって、鈴木さんの席がガランと空いて、そこに誰も座らなくなって、なんだかその事に慣れてしまいしまいそうで嫌だった」
わたしの疑問に答えるように彼は言う。
殻木田君は――
「――殻木田君は優しいのかな?」
真っ直ぐに見つめる。
「俺は、優しいのかな……」
目を逸らし、頬の傷を搔きながら殻木田君は答えた。
「俺は鈴木さんの方が優しいと思うよ」
逸らした目をわたしと合わせると、彼は言った。
「そんなこと――」
その言葉を聞いて、胸の中のわだかまる想いが暴れ出す。
「――そんなことないよ。殻木田君知ってる?わたし、母さんが憎いの、殺してしまいそうな程に。わたしは人殺しになってしまいそうなのに――」
「どうして、そんなにお母さんが憎いの?」
殻木田君の問い掛けに、わたしは話す。
父さんがいた頃は、みんなが幸せに笑っていた事。けれど、父さんと母さんが上手くいかなくなってから、みんなが笑わなくなっていった事。ふたりが離婚した事。そして、弟が重い病気に掛かって入院した事。
「弟は――あの子はわたしが見舞いに行くと、いつも笑って待ってくれてるんだよね……来てくれて、お姉ちゃん、ありがとうって。病気が重くなっていって苦しい時が増えてもよ。迷惑かけて、ごめんねって。苦しくて仕方ないと思うのに。苦しそうな笑顔で。わたし、あの子になにも出来なかった。ただ、笑い返してあげる事しか出来なかったの。わたし、わたし――でも母さんは……」
胸が苦しい。ココロが痛い。
「弟の入院費用のためにも、わたし達の生活の為にも、母さんが仕事を頑張ってくれてた事は分かるの。でも、でも、それでも、どうして母さんはあの子に殆ど会いに来なかったの!家族なのに!病気に対してなにも出来なくても、傍に居てあげる事だけはきっと出来たのに!そもそも母さんは、どうして父さんと離婚しちゃたの?母さんだけが悪いんじゃないのは分かってるの。でも、でもそれだけじゃ……」
「納得は……できない?」
問いかけにわたしは頷く。
納得はできない。受け入れることはできない。わたしと――弟に降りかかった不幸を。
どうして、こんな事になってしまったんだろう?
だれが悪かったんだろう?
分からない。分からないから痛い、辛い。
「だから、わたしは……」
その答えが、例え間違っていたとしても。
「……母さんが憎い」
母さんに求めた。
殺したいとすら思った。
「そんな、わたしが……本当に優しいの?」
殻木田君は首を振る。
「だから、だから、鈴木さんは優しいんだよ……だから、傷付けないようにお母さんから離れようとしたんだから、全部、自分ひとりで背負うことにしたんだから」
「でも、わたしは母さんを、ひとを殺そうとしてる――!」
殻木田君は首を振る。
「ひとが苦しい想いをした時、悲しいことがあった時、それが自分で抱えきれない程のものなら、自分でどうすることもできないものならば、何かを、誰かを憎んでしまうことは、俺は――当然だと思う。それに、それは鈴木さんが、家族を大事に想っている証だと思う」
「そんなこと――」
「ひとは、大事では無いもののためにそんなには傷つかないよ」
「ああ――」
殻木田君の言葉が、わたしの想いを解していく。
わたしは――家族を大事に想って。
でも、それならば、なぜ?
この手は――
「――ねえ、殻木田君、聞いてもいいかな?君にはわたしの手はどう見えるのかな?」
不意な質問。殻木田君は、その言葉を聞いて暗闇の中、目を凝らしてわたしの手を見る。
「鈴木さん、その手は……」
「殻木田君にも見えるんだ……」
わたしの手、わたしの手はいつの間にか――血に塗れた怪物のモノのようになっていた。
「わたし――どうしたんだろうね?色々なモノを、憎んでコワシタイと思い過ぎたのかな?こんな手になっちゃうなんて」
自分の手を見つめて、呟く。
「――これじゃ、まるで怪物みたい」
わたしは、殻木田君を見つめて聞く。
「わたし――どうしたらいいんだろうね?こんな手でわたし、帰れるのかな?元いた場所に、わたしの世界に」
殻木田君は一瞬、険しい目をしたけれど、わたしを見つめて言った。
「帰すよ、君を」
「えっ……?」
驚くばかりのわたしに殻木田君は、優しく微笑んで言うのだった。
「俺の力だけでは無理だけど、でも知ってるんだ。こういう事を解決できそうな人を。鈴木さん、俺と一緒にその人のところへ行こう」
その手をわたしに差し伸ばす。
でも、わたしはその手を取れない。
「それでも、わたし怖いよ。どんな顔をして母さんに、学校のみんなに会えばいいのか分からないよ。それにこれから、またつらい想いをした時、怪物になってしまうかもしれない自分が怖いよ……」
「そしたら、俺がまた来るよ。君が助けを求めるのなら絶対に。君が怪物になってしまう前に――」
その笑顔は崩れない。
その笑顔を信じて、わたしは殻木田君に手を伸ばす。怪物のモノのような手で。
そして思うのだった。
殻木田君はどうして、こんなにも誰かのために――
わたしは殻木田君を知りたいと――願った。
殻木田君の手を握りしめた時、わたしは見た。
殻木田君は、全身がどこもかしこも――傷だらけで血に塗れていた。
その事に驚いて、そして恐ろしくて、わたしは殻木田君の手を、振り払った。
それだけだった筈なのに、殻木田君の身体は宙を舞い、部屋の隅に集められ放置された机やイスの中に吸い込まれていった。
ナニカが激しくぶつかり崩れていく音、部屋に沸き立つホコリ、部屋の隅に集められた金属製のイスや机が崩れていく。
その中に埋もれながら、グッタリとうつ伏せに倒れ込んでいる――殻木田君が、そこにはいた。
「え……?」
わたしには、何が起きたのか分からなかった。
「殻木田、君……?」
恐る、恐る、近づき殻木田君の様子を見る。
倒れ込んでいる殻木田君は、何も答えない。
微かに息をしていることは分かった。
ただ、ただ――身体から流れる血が床に黒いシミを作っていく。
「――っ!」
起こってしまった事に驚いて、声すら出なかった。
なんで、どうしてこんな事になってしまったのだろう?
こんな事をダレがしたんだろう?
わたし?ワタシ?ワタシ?
「あっ、あっ…」
分からない。ダレガ悪いのだろう?
ソレはきっと――
――怪物の手を持ったわたしだ。
自分の手を見つめる。
醜い、血に塗れた手がそこにはある。
殻木田君の身体から流れる血が止まらない。このままでは殻木田君は死んでしまうかもしれない。
シヌ。シンデシマウ。
この手が、こんな手だからきっとわたしは――殻木田君を殺してしまいそうになっているんだ。
ワタシ――コロス?
コロシテシマウノ?
わたしを助けようとしてくれた殻木田君を?
ソンナ、ツモリジャナカッタノ二?
「ごめん…なさい……」
涙が零れた。
どうすればいいのか分からなかった。
ただ、ただ怖かった。苦しかった。
殻木田君を殺してしまうことが。
ひとを殺してしまうことが。
ひと殺しになってしまうことが。
ドウシタライインダロウ?
ソノトキ――誰かが頭の中で囁いた。
コワクテ、クルシイのナラバ、イッソ、ヒトゴロシにナッテシマエ。
「あっ、あっ!」
その囁きは酷く蠱惑的に思えた。
元々、ヒトをコロシテしまいそうな想いに、悩んでいた。自分はその想いのために、ヒトゴロシがデキテしまうかもしれないことに苦しんでいた。
ナラ、コロシテシマエバ――
――わたしはヒトゴロシの自分を受け入れられる。
最初からヒトが殺せるニンゲンだったと思える。
「はは…ははは……」
その事に気が付いてしまうと、嗤いが止まらない。
これまで悩んでいた事が、酷く莫迦らしく思えた。
「ああ――」
わたしは殻木田君の首に手を掛ける。この怪物のような手で力を込めれば、今の彼なら簡単に死んでしまうだろう。
こんなワタシを殻木田君は赦してくれるだろうか?
彼なら赦してくれるかもしれない。
ゆっくりと、手に力を込めていく――
――なぜだろう。涙が零れて止まらない。
「ハハハ…」
「――止めなさい」
不意に、声が響いた。
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