第28話 青い空と春先に

    10


 本当なら殻木田くんと最後の夜の散歩をする事になるはずだった日の、その夕方。

 私は殻木田くんと会う前に、古谷邸で千鶴と話し合っていた。

 この怪異が終わった後の、殻木田くんの処遇を巡って。


 「――記憶を、消しましょう」

 「ふーん、それでいいんだ?」

 私の発言に対して、千鶴が質問を返す。

 「なにも問題は無いでしょう、その方が。彼の日常に暫く影響が出るとは思うけど」

 この数日の夜の散歩、そしてその前の一連の出来事――私の事。

 〝魔〟に関わってしまった彼の記憶はそれなりに多い。

 下手をすると、事故でもでっち上げて、記憶を失くした事にしなくてはいけないかもしれない。

 それでも、と私は思う。

 彼のような――魔女である私にすら笑いかけるような子は全部忘れて、明るい日の当たる昼間のような【セカイ】にいるべきだと。

 「まあ、あんたがそう言うならいいけどさ」

 私の顔を覗き込みながら千鶴は言う。

 「なによ?」

 「別に~なんでもないけどさ」

 大げさにかぶりを被る。

 それから、不意に〝魔女〟となって彼女は冷たく言い放った。

 「ただ――あんたが今回は随分と入れ込んでいたみたいだから、おかしな事でも言い出すかと思って。例えば、協力者にするとか。そうすれば記憶を消さなくて済むから。あの子と繋がっていられるから」

 私達〝魔女〟のしている事。それは時として、この【セカイ】の秘密を知る人間の、警察や医療関係者などに――協力を仰ぐ事もある。けれど、それは互いにそれなりの力と見返りあっての事だ。

 ただの一介の学生である彼を選ぶ理由は無い。

 「当り前でしょう」

 「そうね。私達のしている事で感情を寄せるなんて無駄でしかないわ。ただ、母様は彼には見どころがあるから引き込んでもいいとは言ってはいたけど――」

 私は首を横に振る。

 もう、うんざりだと思った。

 誰かの価値を勝手に決めて、品定めして、ゲームで使うカードのように切り張りをするのは。

 彼を魔女の思惑の中に引き込んだのは私だけど。


 ただ私は――私に向けてくれたあの笑顔を、そのままにしておきたかった。


 それは私の勝手な願い。

 この時の私はまだ知らなかった。気が付く事が出来なかった。

 殻木田くんにも色々な顔がある事に。

 そもそも〝魔女〟の魔法をも破る意思の奥底にある想いは。

 殻木田くんにとってこの【セカイ】は。


 それは――


 ――それでも私は。



 「……ん」

 身体を包む柔らかい布団の感触を覚えながら目を覚ます。

 辺りを見渡す。

 木目の天井、襖やタンス、い草の畳、時代を感じさせる古い家具の数々。

 見慣れた日本家屋の風貌。

 ここは古谷邸だった。

 どうして私は――

 そして思い出す、気を失う前にあった事を。

 「殻木田くん――!」

 布団を跳ね除けて起きる。

 身体が痛む。昨日受けた傷のせいだろう。

 それでも見れば身体に傷は無い。千鶴が治してくれたのだろうか。

 痛む身体。それでも私は何よりも彼の事が気になった。

 殻木田くんは、どうなったんだろう?

 彼の受けた傷は治せた筈。それでも今、私が古谷邸にいるということは殻木田くんも。彼は無事なんだろうか。もしかしたら彼はもう記憶を――

 「先輩、目が覚めましたか?」

 声のした方に顔を向ける。

 部屋の外の渡り廊下に繋がる側の、開けた障子の奥。そこから見える古谷邸の庭園を背に、縁側の柱に背を預けて座る殻木田くんがいた。

 殻木田くんは、寝間着に身を包んでいる。多分、それは古谷邸のものだと思う。

 襖の間から見える部屋の外は明るく、空は快晴だった。

 「ええ。ねえ殻木田くん、あなたの方こそ大丈夫かしら?身体は痛くない?千鶴や他の人に何かされなかった?」

 捲し立てるように言う。

 「ええっと……」

彼は困ったように、頬を搔いてから答えた。

 「とりあえず、大丈夫です。身体はなんとも無いですし、特に何もされてはいないと思います」

 その答えに私は、安心して溜め息を吐く。

 「先輩の方こそ大丈夫ですか?」

 首を縦に振る。

 「それなら良かったです」

 そう言って彼も溜息を吐いた。

 「今回の怪異の事、古谷千鶴――先輩から聞きました。その魔女の事についてはあまり詳しく話してくれなかったですけど、事の経緯については大体」

 「え?」

 私は驚いた。どうして千鶴は。

 「街で傷だらけで倒れていた俺達を見て、ここまでの事になったら話さない訳にはいかないじゃない!わたしの気だって済まないわよ!と言ってました」

 どうやら今回の件、心の底では千鶴も思うところはあったようだ。

 でもそれなら、私は彼に謝らないといけないと思った。

 「ならあなたも、もう知っているでしょう。あなたは私達にとっては怪異を引き付けておくための囮だった。あなたは怒ってもいい、なにか言葉があるなら私にぶつけてもいい。私が最初にあなたを巻き込んだのだから。それに、あなたの過去を調べ上げた挙句、あなたに心無い言葉まで言った。その――ごめんなさい」

 私は頭を下げた。

 でも、殻木田くんは首を横に振った。

 「いいんです、先輩。先輩の言った事は間違いはないですから。俺は多分、自分の事なんか大事だなんて思っていない。それどころか、きっと自分自身が嫌いなんですよ。家族を俺が殺してしまったのかもしれないから」

 「それは……」

 「ええ、頭では分かっているんです。きっと自分のせいじゃないって。でも心は駄目なんです。どうしても、そう考えるのを止められない。父さんも母さんも妹も、もうどこにもいないのは事実でしたから。俺の大事なひとが、俺を愛してくれていたひとが、みんなどこかに俺を置いて行ってしまったから。俺はもう誰からも愛されないんだって、愛されてはいけないんだって思ったから」

 亡くなったひとは、もう何もしてくれない。何も答えてくれない。

 だから、赦してくれない。赦されない。赦せない。

 少し、間を置いてから殻木田くんは続けた。

 「古谷先輩から聞いて、今回自殺してしまった子の気持ちが少しだけ分かる気がするんです。きっと辛かったと思うんです、理不尽な想いをして、痛くて、怖くて、苦しくて、終って欲しいと願っても終わらなくて。終わらせ方も分からなくて――だから、終らせしまったんだと思うんです。この苦しみがずっと続くのならば、と」

 殻木田くんは蒼く、澄んだ空を見上げた。

 「俺はこの世界が憎いんです、俺に悲しい出来事を起こしたこの世界が。でも、それ以上に自分が憎くて仕方ないんです。壊れてしまいそうな程に、壊してしまいそうな程に。自分の中に怪物がいるみたいなんです。それをどうすればいいのか俺には分からない」

 「殻木田くん……」

 「事故の後、病院で入院していた時に苦しくて仕方なかった時に俺は思ったんです。周りで働くお医者さんや看護師さん、それからその時、隣のベッドの子から借りた本を読んで。俺と同じように泣いている子供がいるのなら、どこかに困っているひとがいるのなら俺は――そのひと達のチカラになりたい、と」

 それが殻木田くんの世界の終わりと始まり。

 「実際に、自分なりに始めてみたら色々ありました。都合よく使われる事もあった、自分のした事が正しいのか分からない時もあった。でもそうしていないと、俺が怪物に――いいえ、そんな怪物すら飲み込んでしまう〝虚ろ〟になってしまいそうだったから」

 殻木田くんは振り返る、笑顔で。

 けれどそれは、年相応の少年のものとは思えないとても悲しくて、酷く――渇いたものだった。

 色々な感情を押し殺して、けれど目に一杯の涙を溜めているような笑顔だった。

 私は思った。今の殻木田くんに必要なのは、きっと言葉なんかじゃない。

 布団を出て立ち上がると、私は殻木田くんの前に立つ。

 そして、彼を――抱きしめた。

 「せんぱい……?」

 そうして分かる。彼は震えていた、昨日家族の事を話した時のように。

 「殻木田くん、あなたは十分に頑張ったのよ。もう十分に。だから泣いたっていいのよ、そうしたって誰もあなたを責めたりしない――」

 「せん…ぱい…、おれ、おれは、ずっと……」

 「いいのよ、殻木田くん」

 彼は泣いた。泣き続けた。きっとこれまで泣くことの出来なった分までも。

 ようやく分かる。

 殻木田くんにとってこの【セカイ】は虚のような灰色だったんだ。

 そこには、なんの色も付いていない。

 深い悲しみが色を奪ってしまった。

 そんな世界で生きていくために、彼は誰かの為に在りたいと思った。

 それはきっと弱さなのだろう。

 それでも、このただひとの想いで廻り続ける【セカイ】は私達を泣いている子供のままではいさせてはくれなくて。

 生きていくために、理由を求めた。

 ひとが生きるのに多分、理由なんて必要ない。

 それなのに私達には、それが必要だった。

 思い出に囚われて生きているから。

 壊れてしまいそうなほどに苦しかったから、悲しかったから。


 殻木田くんは、きっとこれからも誰かの為に在ろうとするのだろう。

 生きていくために。


 それでも私は願わずにはいられなかった。


 「先輩、ありがとうございます。少し楽になりました」

 ひとしきり泣いた後、彼は顔を上げた。

 「ねえ、殻木田くんはこのまま怪異の記憶を持ったままでいいの?あなたはもう十分、辛い記憶を持っている。これ以上、背負う必要なんかないと私は思う。それにあなたが望むなら、あなたの一番辛い記憶を消してあげることも出来る。そうしたら、それはもうあなたであるとは、きっと言えないけどそれでもあなたが楽になれるのなら――」

 殻木田くんは首を横に振る。

 「いいんです、先輩。確かに辛い事ばかりだった気もします。でも、俺は先輩に会えた。〝魔女〟である前にひとである先輩に。ひととして笑える先輩だからこそ、俺は先輩を信じてみようと思ったんですから。そんな思い出を俺は――憶えていたいです」

 殻木田くんが微笑む。

 蒼い、澄んだ空の下で。

 あなただって笑えるじゃない、ひととして。


 私は願う――彼がこんな風に笑っていけるように少しずつ変わっていける事を。


 それにどんな目に遭おうとも、彼が誰かの為になろうとし、信じてみようとするのは、やはり彼がひととして優しいからだ。

 ただ、その事に理由を求めてしまっただけで。


 そして、彼の言葉に私も泣いた。

 私もずっと〝魔女〟でいる前にまだ、ひとでいたかったのだ。

 殻木田くんはそんな私をずっと見ていたんだ。

 それが――ただ嬉しかった。


     ◇


 四月、春の季節。

 まだ俺は着慣れない制服を着て、高校の入学式を受けた。

 部の紹介や周りの新しいクラスメイトと話して、心を躍らせて。テストの事や校長先生の長い話にゲンナリして。

 色んな事に一喜一憂して。

 これからの生活に希望を持って。

 入学式が終わって、叔父さん達とどこか食事に行くことになった。

 でも、少し待ってもらう事にした。

 どうしても、出会いたいひとがいたから。

 そのひとはある桜の木の下にいた。

 黒い長い髪を押さえて、物憂げな瞳で俺を待っていてくれた。

 「先輩――虚木小夜先輩!」

 俺は手を挙げて、小走りで先輩の側に行く。

 魔女である彼女の側に。

 「殻木田くん、入学おめでとう!」

 先輩は笑顔で俺を迎えてくれる。


 二月の怪異の後、他にも幾つかの怪異を経て、桜の季節に俺と先輩は再び出会う。


 ――この桜の花が舞い散る、暖かな季節の中で微笑み合って。



      二月の夜の闇は昏く。深く  了

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