第19話 再びの再会

 夕暮れの街の中に俺はいた、竹刀袋を持って。

 冬の夜の訪れは早く、街にはもうすぐ暗闇が訪れようとしていた。

 昏く、深い暗闇が世界を覆う。

 頭の中でもうひとりの自分が囁く。

 帰るのなら今の内だぞ、と。

 昨日、何があったのかを未だに思い出すことができない。

 それでも分かることもある。

 きっと、何かがあったんだ。

 俺の手には、とても負えないことが。

 身体が震える。

 怖い、と思った。


 夜の街が、夜の闇が。


 明かりの届かない街の隅の暗がりが、誰もいない路地が。

 この昏く、深い闇の中に何かが――俺の知らない何か恐ろしいものが潜んでいる気がした。

 こんな感覚は昨日までは覚えなかったものだった。

 今なら〝通り魔〟に襲われた友達の思いが分かる気がした。


 怖い。


 一度、そう思ってしまうと全てが――それこそ世界の全てが恐ろしく思える。

 俺は竹刀袋を強く握る。


 俺は誰かの為に何かがしたい。


 〝通り魔〟を捜す事なんて友達は望んでいないかもしれない。

 俺のしている事なんて、俺の独りよがりなんだと思う。


 それでも――

 ――家族の死の記憶。


 冬の空気に息を吐けば、白く染まる。

 夜の闇の中、己に問う。


 俺は何をするのか?


 夜の闇へと強く踏み出す。


     ◇


 夜の繁華街を進んで行く。

 これから、どうするかを考えて。

 友達が襲われて場所に行ってみるか、あるいはこの付近を見回るか。

 なんの力も知識も持たない自分にできることなんて、所詮タカが知れてる。

 (やれる事からやるしかないよな……)

 そう決めて、止まる事無く歩き続ける。

 その間に多くの人とすれ違う。

 昼間の街中とは違い、夜の暗がりでその顔、表情はあまりよく見えない。まるで顔の無い影法師のようにも思えた。

 そんな中――すれ違う。


 腰まで伸びた黒髪を揺らして歩く彼女と。


 「――あ」

 息を飲んで振り返る。

 俺は彼女を知っている気がした。出会ったことなんてない筈なのに。

 声を掛けようしたけれど、彼女の背中は夜の雑踏の中へとすぐに消えていく。

 「待って――」

 俺は彼女の背中を追いかける。

 走る、息を切らしながら全速力で。

 何度か、人にぶつかり謝りながらも。

 それでも追い付かない。それどころか追いかける程に離れていく気すらした。

 まるで、本当はありもしない蜃気楼を求めているかのように。



 追いかけて辿り着いたのは、繁華街の路地から繋がる開けた辻角。

 ここまでは繁華街の光も喧騒も届かない。

 あるのは静寂と、淡い月の光だけ。

 月の光――ああ、そうか。今日の空は晴れているのか。

 荒い息を吐きながら、そのことに気が付く。

 彼女が足を止める。そして振り返った。

 月の光に照らせて長い黒髪を翻して、どこか物憂げな瞳で俺を見る。

 「やはり、あなたは――」

 彼女が呟く。

 白いコートとセーター、白と黒のチェックのスカートにストッキング。そんなありがちな恰好に身を包みながらも、スラリと伸びた手足と整った顔立ち、その雰囲気が彼女に浮世離れした美貌を与えていた。

 「はあ、なんて面倒」

 溜息を吐く。そんな仕草にもどこか艶があった。

 なのに――彼女が不意に虚空に、ありもしない〝空間〟に手を伸ばし差し入れる。

その〝空間〟はまるで世界にできた裂け目、狭間。

 そこから〝何か〟を掴み、引きずり出す。


 引きずり出されたのは刃だった。

 蒼白い輝きを放つ、三日月にも似た不可思議な鎌のような刃。


 その刃を見た途端、ズキリと頭が痛んだ。

 記憶に掛かっていたモヤが晴れていく。

 昨日の夜、やっぱり俺は〝通り魔〟を捜して夜の街に出ていたんだ。

それから、それらしいヤツに出くわして、殺されかけて、そして彼女に出会ったんだ。

 彼女は自身の身の丈ほどもある刃を軽々と振い、その刃先を俺の――首筋へと押し当てた。

 「あ……」

 一瞬の事で動けなかった。

 俺は自分の身に何が起きているのか、最初はまったく理解できなかった。

 理解できる筈もなかった。暗い夜の中で、少女がなにもない所からありもしない刃を取り出して、それを首筋に押し当てられて。

 まるで何もかもがユメ、性質の悪い冗談のようだった。

 「どうしてまた、夜の街を彷徨い歩いているかを答えてもらうわよ」

 物憂げな瞳を崩さず、彼女は問う。

 それでもその言葉には、静かながらも拒否させない強さがあった。

 それが、この状況が全てが現実であることを俺に突きつける。


 だとするのなら、これは現実には起こりえない怪異――魔的な事だった。


 首筋に押し当てられた刃。それが何なのかは俺には分からない。けれどその刃を見ていると、より強く思い出す事がある。

 それは、昨日自身が受けた――一方的な暴力の記憶。

 悪意。殺意。

 誰かを見下して嗤う――昏い悦び。

 ――怖い。

 「ぐ……」

 身体が痛みを覚えて震える。

 それはありもしない傷の痛み。

 ――ありもしない?

 そんなバカな。あれだけの事をされたのに今朝起きた時には、身体には受けた傷跡はなにひとつ無かった。

 それだけじゃない。その時の事を思い出してココロも鈍痛を感じる。

 ――なんで、今まで思い出せなかったんだ。なんで、この身体には傷が残っていないんだ。

 「全部、思い出したようね」

 彼女が俺を見つめて言う。

 「そう昨日の夜、あなたは酷く怖い恐ろしい思いをしたはず。その事は偶発的に起きた事だと私は思っていた。けれどあなたはまたこうして夜の街に、何かを求めるように現れた。あまつさえ、私の事も憶えていた。確かに記憶を〝刈り取った〟のに」

 「記憶を〝刈り取った〟?」

 「そう、あなたの記憶を消したの」

 酷く当たり前のように彼女は告げる。

 「そんな事……」

 「そんな事はあなたにとっては不思議な事なのでしょう。でも私にとってはあなたの方がよほど不思議なのよ。答えなさい。何故、夜の街にやって来たのかを。もはや偶然ではないわね。確かな強い意思を持ってあなたは来た筈よ」

 彼女が静かに、それでも真っ直ぐに俺を見ている。

 俺も彼女を真っ直ぐに見つめ返す。

 きっと、彼女に嘘は通じない。

 最も刃を首に突きつけられたこの状況では、吐きようもないけれど。

 一度、深呼吸してから覚悟を決めて俺は言った。

 「俺は〝通り魔〟を捜しているんです。少し前に友達を傷つけた〝通り魔〟を。許せなかったから。その〝通り魔〟はまだ見つかっていないんです、だから、これからも誰かを傷つけるかもしれない。そう思ったら居ても立てもいられなくなったんです」

 俺と彼女の視線が絡む。

 しばらくして、彼女は言った。

 「嘘、ではないようね」

 首筋から刃が外れる。

 彼女が刃を手放すと、何処かに消える。

 その瞬間、今までの緊張の糸が解れて、膝が笑ってその場にへたり込む。

 「ははは……」

 変な笑い声が出る。

 昨日といい、これまでの人生で体験しなかった不思議でデンジャランスな事のオンパレードだ。

 そんな俺に対して、彼女は目を伏せて何かを考え込んでいるように見えた。


 「――あなたにはこれから毎晩、私に同行して私のする事を手伝って貰おうかしら」


 「え……」

 突然の彼女の言葉。

 「それは……どういう事ですか?」

 「どうやら、私とあなたが追っている相手は同じ様だし、私にとってはあなたが側にいる方がなにかと都合がいいと判断したのよ」

 「えっと、その、それって……拒否権ってあります?」

 手を挙げて聞いてみる。

 「無いわね」

 何のためらいもなく断言される。

 「明日、時間はあるかしら?」

 彼女の問いかけに頷く。

 「そう。なら明日の五時に駅前にある『セイレーン』という喫茶店に来なさい。その時に詳しく話すから」

 そう言って、手の平を返して何もないところから住所の書かれたメモ書きを取り出す。

 もう、なんでもアリだなと心の中で呟く。

 「それでは、また明日会いましょう」

 彼女が俺に黒髪を翻して、背を向ける。

 「――言い忘れたけれど今日の事、それからこれからの事を人に話す事は薦めないわ。あなたがどうなるか、保障しかねるから」

 去り際に、そんな言葉を残す。

 口調にあまり抑揚がないのが余計に恐ろしい。

 去っていく背中、その背中に声を掛けた。

 「ありがとうございました。昨日は助けてくれて――」

 まだ震える足を無理に立たせて、頭を下げる。

 「なんで――そんなこと」

 彼女が振り返る。

 「だって、昨日助けてくれたのはあなたで。きっと、身体の怪我を治してくれたのもあなただと思うから」

 その言葉を聞いて、彼女のこれまで変わることのなかった表情が僅かに――綻んだように見えた。

 「気にすることはないわ。その方が――都合が良かっただけだから」

 「それでも、助けてもらったことには変わりはないと思うんです」

 俺は頭を下げ続ける。

 「あなた、名前はなんていうの?」

 「殻木田順平です」

 「そう――私は虚木小夜」

 サヨ――その名前に当てられた字を俺は知らない。けれど、その響きが彼女にはとても似合っていると思った。


 「殻木田くん、あなたはおかしな子――」


 そう言って彼女は今度こそ去っていった。夜の闇に溶けるように。何処からともなく、音も無く。淡い月の光の中で。


 彼女はまるで――魔女のようだった。

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