第45話 天が下知る
日没直後なので、人目を引かないように行動するのは楽だった。米津の伝えた条件をクリアしつつ、井伊直政は教えられた街道外れの寺に辿り着く。
造りのしっかりとした寺で、宗派は天台宗。
外見上は、全く怪しくない。
強いて特徴を挙げるなら、夜間でも門前や屋内に灯りを絶やさずにいられる経済力か。
「う〜む、二十四時間受け入れ可能な良心的な寺のようであり、夜襲に警戒する程に宝物を貯め込んだと邪推してしまいそうな寺のようでもあり…」
もう一度背後を振り返って追跡者の有無を再確認してから門を潜ろうとすると、目の前に大柄な僧が立っていた。
井伊直政は、生まれて初めて前に回り込まれるという体験をした。
相手は、良い体格の初老僧だ。
高級な僧衣に相応しい品格に満ち、目は聡明な輝きを湛えている。
元武士でも納得のいく風体だが、井伊直政に向ける感情は優しい余裕に満ちている。
「急用ですか?」
体格以外は、和やかな貫禄を保つ高僧に見受けられる。かつて武家だったとしても、殺戮稼業からは縁を切っているのだろう。
予備知識さえ無ければ、直政も腰を下ろして歓談に興じていたかもしれない。
「米津殿の勧めで来ました」
初老僧は、直政の着物に着いた井伊家の家紋を見て、合点する。
「ああ、徳川様が、また書を預けに?」
家紋だけを見てそこまで察してくれる僧に、直政は我慢出来ずに叫ぶ。
「あなたが朝比奈泰朝ですか?!」
初老僧は、困った顔で直政を見返す。
「あなたが…」
「君は、どんな用事で主君の側を離れたの?」
説教を始める顔である。
井伊直政の事情を察し、朝比奈泰朝への感情も分かるであろうに、咎める顔である。
「いえ、殿に叱られましたので、暫し休憩を…」
「主君が他国の街道を旅しているというのに、家来が気侭に離脱するのか。油断が過ぎるとは、思わないのかね?」
随分な言い様だが、反論は出来ない。
個人的な感情で、此処まで来た。
毎年家臣の誰かが反逆する織田家の保証する安全なんて当てにならないのに、家康の側から離れた。
頭に浮かんでくる言い訳を磨り潰しながら、直政は初老僧の説教を受け止める。
この人物が朝比奈泰朝であれば、主君の側を一刻でも離れる恐ろしさを知り抜いている人だ。そして、その後の長年に渡る辛苦を聞いたばかりでは、父の件を持ち出すも憚られた。
井伊直政の殊勝な態度を見て、過度の説教は不要と見た初老僧は、話を切り上げようとする。
「主君の側を離れるな。拙僧とは、出向かずとも会えるようになる」
「それは…」
「近日、浜松に出向いて、徳川様に仕える予定です。遠からず、君とは同僚になる」
「マジですか?!」
「分かったら、早く戻りなさい」
そう言われて回れ右をしかけて、井伊直政は肝心な事を尋ねておく。
「御坊の名は?」
「
あまりにカッコイイ僧侶ネームに、直政は気絶しかけた。
「天空城の天に、烈海王の海ですね」
「天日に干した海産物、の略です」
「・・・は?」
「かつおぶし、です」
しょうもない洒落で気を削がれた井伊直政が去ってから、服部半蔵は天海の前に姿を現す。
直政が気付かなくても、天海は半蔵に気付いていた。
昔馴染みに、諦観に満ちた口調で愚痴を投げる。
「口を滑らせるなら、米津常春だと思っていました」
「本気で徳川に仕える気か? お主が?」
「還俗はしない。学識豊かな高僧としてだ」
元・東海道最強のジョブチェンジに、半蔵はあまり感心しない。しかも、徳川に。
「殿に必要だと思うのか? あの智慧者に」
「人が良過ぎるよ、あの殿は」
天海は、今川氏真が和睦に応じた日を思い返す。
「徳川様は、本気で駿河を氏真に返却しようとした」
武田を退けたら、駿河を今川氏真に返却する。
それが、和睦して遠江を譲り受ける条件だった。
氏真ですら、これがそのまま履行されるとは全く考えず、ただの好意的な文章が、お情けで和睦に盛り込まれただけだと受け取っていた。
一年後に亡命先の北条から出戻っても居候で甘んじ、「約束通りに、武田を追い払って駿河を返してよ」なんて要求はせずに、タダメシで我慢した。氏真だって、身の程は学習するのである。
武田が滅亡して駿河を徳川が支配下に収めても、約束違反だなどと抗議しない。
私生活では更なる子宝に恵まれ、京にも引越し、織田信長とも和解して庇護下に入り、身の丈にあった文化人生活で落ち着いていた。
そこへ、氏真を震え上がらせる風聞が入る。
なんと家康が信長に、「約束しましたので、駿河の国主に今川氏真を任命してはどうでしょうか?」と言い出し、信長がメッチャ嫌な顔をして却下したという噂だ。無能者が出世する事は、信長にとって憎悪しか沸かない愚行である。
あくまで噂に過ぎないのだが、後腐れが無いように殺されるのではないかとビビった氏真が、暫く雲隠れした。作者は、氏真が身を隠せた事の方に驚いたけど。
或いは、誰も探さなかったのが、ただの噂である証拠か。
「危ういと感じました。徳川様に甘えたり妄信せずに、知略を相談可能な者がおらねば。信長に対抗出来ない」
半蔵の脳裏に、最近復帰した悪知恵王・本多正信が浮かぶが、天海の気が変わらないように黙っておいた。
「あ、それとは関係ない用事なのですが」
天海は、さり気ない雑用であるかのように、懐から書状を取り出して服部半蔵に渡そうとする。
「これを、
「改めても?」
「どうぞ」
半蔵が中を改めると、『本能寺』とだけ短く書いてある。
「信長は来月、妙覚寺ではなく、本能寺に泊まるそうなので、早めに教えておきたくて」
「…お主から教えてやらないといけないような、情報か?」
明智光秀の情報網は、近畿地方に限って言えば服部半蔵と同レベルの権限を与えられている。
信長の宿泊先について、天海経由で知るような必要性が、無い。
怪しんで書状を包み紙も含めて検分するが、細工はない。
「そこまで疑いますか」
「分からぬ。気に入らんな」
「信長は本能寺に名物を集めて、京の権力者や高僧にお披露目する行程です。同門から得た情報故、明智殿に送ります。今の私は明智殿の端末ですので、逐一お知らせするまで」
「…ああ、その方の点数稼ぎであったか。済まぬ、疑い過ぎた」
「もう一人の僧ですよ。警戒しないで下さい」
「それは無理だ」
とは言いつつ、服部半蔵は、天海と明智の間の情報網については、その場で詮索しなかった。
明日には、安土城で明智光秀に会えるのである。
その時、二人の関係について仔細を探れば済む。
「では、届ける」
服部半蔵は、井伊直政を追い抜いて帰陣する為に、夜道を疾駆する。
天海は、込み上げてくる穏やかな笑みを服部半蔵の背中にすら見せないように、手近の灯を指で弾き消した。
明智光秀は、安土城で徳川の接待を任されていたはずなのに、急に羽柴秀吉の救援に回されて、大急ぎで軍勢の出発準備に追われている。
少々荒い使われようだが、新しい織田家ナンバーツーである家康との軋轢が発生しないようにする配慮であったかもしれない。
服部半蔵は書状を渡すだけで、充分な調査を直接する機会を失った。
この時期に、明智光秀が本能寺の織田信長を襲うなどという可能性を、誰も考えていない。
この時期に「織田信長を殺したい人ランキング」をアンケートしても、明智光秀の名前を挙げる人は稀であっただろうし、番付は百位以下になるだろう。
掘り下げれば、「母親が信長のせっかちな外交政策のせいで殺された」という重大な要因が見つかるのだが、それすらランキングの番外になってしまう程に、織田信長が爆買いし続けた怨恨は過剰だ。
だから、かの変事は成功してしまった。
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