第25話 遠江の中心で愛を叫ぶ武田(3)
1569年(永禄十二年)二月十八日。昼飯前。
徳川家康の所在を表す金の扇は、全く動いていない。
黄金の鎧甲冑という派手な装いの徳川家康は、突撃して来た朝比奈泰朝に、背を向けている。
徳川の本陣は、掛川城に背を向けて、街道の東へと陣形を変えていた。
朝比奈泰朝には、矢の一本も寄越さない。
朝比奈泰朝以外の今川兵は、上司の突撃力に付いて行けず、遥か後方で徳川の兵と戦いを続けている。
朝比奈泰朝だけが、招き寄せられるように、家康のいる方向へ進んでいく。
その態度の指し示す先を考えて、朝比奈泰朝は鬼気を鈍らせる。
家康の隣りでは、完全武装の本多忠勝が、名槍・
それ以外の兵は、家康の命じた通りに、朝比奈泰朝に武器を向けずに耐えている。
朝比奈泰朝は、家康の面前十メートル程で馬を降り、刀の血を払ってから鞘に戻す。
桶狭間の戦い以来、九年ぶりに見る家康の顔は、朝比奈泰朝にとって眩しい。
全ての災難に対して後手に回って今川の死水を取ってきた朝比奈泰朝と違い、全ての困難を主従一体となって克服し、成長を遂げている戦国大名・徳川家康。
(
久し振りに、泰朝は旧主君に想いを馳せる。
今川義元は、この人物に次世代の今川家で重役の地位を任せようとしていた。
そして氏真なら、喜んで家康に仕事を押し付けて気楽に過ごしていただろう。
(・・・あれ? どの道、そうなるのか? そうなるな)
桶狭間での大敗が無かったとしても、今川家の末路が健やかではない可能性に気付き、今更ながら朝比奈泰朝は愕然とする。
掛川城から離れ、家康を目の当たりにした朝比奈泰朝の思考は、少し客観的になった。
猛る馬を鎮めながら、刀を本多忠勝に投げ渡す。
本多忠勝は槍の構えを一切崩さず、口で鞘を受け止める。
「預けるだけだぞ。降伏はしない」
「
不戦の状態を整えた瞬間に、家康は泰朝へ責めるように口を開く。
「氏真殿を他国へ亡命させ、掛川城の兵達にも無事を約束する。それでもまだ、不足ですか?」
「一度試してみたかった。敵本陣への殴り込みを」
本多忠勝を見ながら、朝比奈泰朝は嘆息する。
「無理でした」
「あのね。もう事態は、対武田に移行しましたから。掛川城で大人しくしていて下さい。何で討って出て来た? 最新情報には、事欠いていませんよね? 情報は封鎖していないし」
「徳川を蹴散らした後、武田を倒す。順番通りです」
「どちらも出来ません。朝比奈さんは、それが分からない人ではない」
「出来ます」
「本気でそのように強がれる人であれば、とうの昔に西へ進撃して、織田に弔い合戦を挑んでいたはずだ。朝比奈さんは、主人の守りを疎かにするような真似を、二度と出来ない。
氏真殿の事は風魔の小太郎に任せて、討ち死にする気で来ましたね?」
家康の断言に、朝比奈泰朝は目を剥く。
彼が家康を理解するよりも、家康は朝比奈泰朝を理解している。
(こういう耳目が利く上司を得た三河衆は、果報者だ)
朝比奈泰朝が「もう、ゴールしてもいいかな」と黄昏ていると、徳川本陣の東側に伸びる街道沿いに、騒々しい一団が近付いてくる。
黒い菱形を大小三つ重ねた「
側近の騎馬武者達に大量の花束を運ばせながら、超上機嫌で家康の本陣へと戦闘速度を取る。
「♪愛 それは 俺のミドルネーム」
ミュージカルの態で、秋山
「♪愛 それは 俺のライフワーク」
街道の脇に伏せていた米津&服部の部隊が、矢と鉄砲で側面から秋山の部隊を削ろうとするが、武藤喜兵衛の隊が分離して対応し、足止めすら許さない。
「最初から東向きの布陣にしておいて、正解だったな」
「殿ぉ。彼奴の歌を聴いているとぉ、吐き気がするのは何故であろうかぁ?」
毛色の違う武将の出現に、本多忠勝が体調不良を訴える。
「歌は気にするな」
家康は、最低限の助言だけで忠勝の意識を戦いに専念させる。
「努力するぅ」
家康は、迎撃命令を下しつつ、後方の予備部隊にも招集をかける。
朝比奈泰朝は、今川の領地を侵略している一番厄介な敵を目の当たりにして、意識を敵将に集中させる。
「♪愛で満たしてあげよう 国を失った今川の母娘を」
その歌詞の意味に、朝比奈泰朝の頭が煮えていく。
秋山隊の最前列が、矢数に怯まずに徳川の本陣へと槍を付ける。
強兵同士の白兵戦が、凄まじい衝突音を響かせ始める。
それをBGMに、
秋山の歌が、クライマックスに入る。
「♪親子丼ぃぃぃぃ〜〜♪」
敵将の下心をしっかりと理解した朝比奈泰朝が激昂し、兜が浮くほどに毛髪が逆立つ。
馬の手綱を引き寄せると、馬が怖がって泣き出し、やがて諦めて主人の鬼気に同調して猛る。
馬に乗って腰に手を掛けてから、ようやく刀を本多忠勝に預けていた事を思い出す。
忠勝に、頭を下げながら、右手を差し出す。
「彼奴を牛丼にしてくる。刀を返してくれ」
本多忠勝は、破顔一笑。
刀ではなく槍の方を朝比奈泰朝に渡す。
朝比奈泰朝は勿論、その槍の名前を知っている。
間違いで手渡したのではと見返すと、忠勝は無邪気に朝比奈泰朝を応援する。
「蜻蛉切の方が、便利だぞぉ。貸してやるから存分に振るわれよぉ」
家康が、口をポカンと開けて、弟分の気前の良過ぎる振る舞いを凝視する。
その心配そうな顔を見て、朝比奈泰朝は爆笑してしまった。
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