第34話 米津常春という武将(1)
1569年(永禄十二年)二月二十三日夜明け前。
徳川家康の本陣へ夜襲をかけた朝比奈泰朝の軍勢は、徹夜で戦い続けた挙句、退却を始める。
夜襲の計画は、寝返りを持ち掛けた久能の関係者から漏れており、朝比奈泰朝の軍勢は待ち伏せた徳川の軍勢に三方から囲まれて大幅に削られた。
むしろこの戦況でも全滅せずに一晩持ち堪えた朝比奈泰朝を褒めるべきだろう。それしか褒める所は無いけれど。
退却する朝比奈泰朝の軍勢に合わせて、徳川の軍も掛川城へ進撃を開始する。朝比奈泰朝の帰城に合わせて、城内へ攻め込む好機である。
掛川城を包囲する他の部隊も、家康の指示を受けて総攻撃を開始する。
そして案の定、最大の懸念だった原川城が再び落とされ、掛川城の方向へ原川勢が逃げ戻って来る。
此方は完全な潰走で、酒井忠次の軍勢がぴったりと張り付いて追い立てている。
前回と違い、朝比奈泰朝は掛川城の反対側で多忙。
掛川城に逃げ込もうとする原川勢を助けながら酒井忠次の軍勢を退けられる可能性は、全く無い。
掛川城のエースが身動き出来ない状態で、戦力が引き伸ばされて磨り潰されていく。
詰みである。
加えて掛川城外周の外壁同然だった侍屋敷も、戦況に合わせて綺麗に炎上処理されていく。
「ほう、服部半蔵が復帰したな」
手際の良い同時焼き討ち処理を、風魔小太郎はそのように受け取る。
梶原景宗は、別の受け取り方をする。
「おまん、ひょっとして、おいを使わずに、服部半蔵に今川親子を任せる気か? おんしが黙認せにゃあ、ここまで綺麗に焼き討ち出来んがぜよ」
風魔小太郎は、屋根から天守閣に戻ると、長身を屈めて梶原景宗を見直す。
「ようやく気付いたか。鈍いから、最後まで気付かないかと」
「ようやく?」
梶原景宗の鼻腔に、抹茶の匂いが入る。
徹夜明けの今川氏真が、城外の喧騒にも動じず、茶を点てている。なるべく多くの者に振る舞うつもりか、茶碗もありったけ並べている。
梶原景宗は、風魔小太郎のニヤついた鬼面から視線を逸らし、今川氏真の平素とあまり変わらぬ顔を凝視する。彼の顔を真剣に観察するのは、これが初。
文弱とも無能とも評される凡人ではあるが、今日の昼には家族全員殺されていても不思議ではない戦況で、この涼しい顔は、あり得ない。
悟ったとか諦めたとか、そういう高次元の心境に達した表情ではない。
合点に至った梶原景宗は、呻きながら座り込む。
「いつから…いつから、今川は徳川と密約を?」
評価が最低ランクでも戦国大名を職業として経験した男は、梶原の為に淹れた茶を渡しながら、白状する。
「次の春まで生き延びる為の用意は、秋のうちに終えているものだ」
掛川城に撤退する味方の殿を守って血刀を振るう朝比奈泰朝を
「どうして徳川は、鉄砲で朝比奈を狙撃せぬのじゃ? 今なら簡単じゃぞ」
美朝姫に質問されて、拠点防衛狙撃中の日根野弘就は見栄を張る。
「某が天才スナイパーで、朝比奈を狙撃しようとする敵を片っ端からゴー・トゥー・あの世!」
「法螺は一度だけ許してやる」
「敵方の侍が、己の槍で朝比奈を仕留めたいからでしょう。無名の鉄砲足軽の手柄にさせるには、大き過ぎる大金星ですからな」
「敵方に日根野のような凄腕の鉄砲撃ちがおれば、既に討たれていてもおかしくないのだな」
美朝姫からの高評価に、日根野弘就は周囲にドヤ顔を振りまく。周囲は日根野弘就の実力を知っている旧知の部下ばかりなので、ウザがられただけだった。
眼下で徹夜明けの激闘中の朝比奈泰朝に対し、美朝姫は結論に至る。
「ひょっとして、降伏せずに籠城が二ヶ月以上も続いているのは、朝比奈泰朝が意地を張って負けを認めていないからか?」
話が面倒臭い方向に着地してしまったので日根野弘就は逃げようと腰を浮かすが、城内は何処も防戦中で行き場がない。
「ここは朝比奈泰朝の城ではあるし、いつ何時、徳川に降伏するのかは、朝比奈に任せるのが筋ではあるが…」
掛川城の全門に徳川の軍勢が押し寄せ、その半分は門を閉め切れずに圧されている。
しかも掛川城の外堀内堀を満たしていた水が、抜かれていく。
戦火を避難している地元一般人への生活保護や見舞金を欠かさぬ徳川軍には、お返しに掛川城に関する機密情報が入ってくる。城の堀を満たす水門の操作方法は、既に入手済みである。総攻撃と共に、城内の協力者や占有した忍者が、堀の水を抜いた。
掛川城の守備は、門を守っても徳川軍の侵入を防げない状況に変化した。
「あ〜あ、くそ、逃げそびれた」
今度こそ掛川城を見捨てようと包囲網の薄そうな所を見定めようとする日根野に、美朝姫は提案する。
「まだじゃ、朝比奈泰朝に降伏させれば、皆殺しは避けられる」
その朝比奈泰朝は、北門で進退極まっていた。
弓の名手・内藤正成
伝説の勇者の子孫・渡辺守綱
今日は武将モードの鬼面の忍者・服部半蔵
三人の強敵に圧されて、北門を閉じられぬままに徳川の主力に蹂躙されつつある。
間に入って助けようとした今川の武士達は、一合と保たずに渡辺守綱の槍で討たれ続ける。
三の丸からの援護射撃は、内藤正成を恐れて及び腰で効果が上がらない。日根野弘就が撃とうと身を出せば、内藤正成の矢が最優先で放たれる。
朝比奈泰朝は服部半蔵と対峙したまま動けず、兵達に防戦の細かい指示を出しても実行不可能な程に、北門に徳川の兵が溢れる。
北門は、落ちた。
今川の兵達は後退しながら本丸周辺で再結集を図ろうとするが、朝比奈泰朝は敵中に取り残される。
助けに行ける戦況ではない。
西口も破られ、酒井忠次の軍が本丸の側まで攻め進む。
南の大手門も破られ、掛川城城内には三箇所から徳川軍が雪崩打つ。
掛川城の今川勢は、二の丸・三の丸・本丸に立て籠もって戦死を必死に遅らせようと足掻く。
朝比奈泰朝は、まだ生きている。
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