第33話 何かが雪道をやってくる(4)

 物語の時間軸を戻し、武田信玄の話に場面を再開しよう。

 

「彼奴を通じて、駿府と遠江の現状は、上杉謙信に筒抜けだ。我々の動き方次第で、甲斐本国すら危ない」


 寺の伽藍堂に詰める武田の諸将は、徳川家康という人物の用心深さに、言葉も出ない。

 彼らは、武田信玄の深謀遠慮を知っている。

 それと互角に渡り合った上杉謙信の強靭な武才も味わっている。

 だが、この三十路にも届かぬ徳川家康若造の強かな布石の数々に感じる居心地の悪さは、何事であろうか。

 武田と上杉を、まるで碁盤の一碁石の如く扱う神経。

 戦国最強を自負する武田諸将に、徳川家康への警戒レベルが畏怖に達しようとしている。


「これからは、徳川家康を上杉謙信と同格の戦国大名として対処する」


 武田信玄は、部下達の心中に巣喰う惑乱の芽を、積みにかかる。

 武田のカリスマとして君臨する以上、部下達のメンタルケアは欠かさない。

 上杉謙信のような、チート性能MAXの戦国大名との戦役すら乗り切ったのは、信玄が揺るがぬ『お屋形様』として団結力を維持したからこそ。

 新しい強敵を、信玄はディスらずに


「三河の若造という先入観は、棄てよ。それは唾棄すべき油断である。川中島で膨大な被害を出したのは、わしの油断が原因だ。それさえ無ければ、あそこまでの苦戦は発生しなかった。

 わしは、二度とお前達を、あのような激烈な消耗戦に臨ませたりはしない。

 圧倒的兵力で、完勝する。

 徳川家康が強敵だと認める故に、それを為そう。

 その為には、先ずは甲斐本国へ撤退する。

 徳川との戦いは、上杉や北条に干渉されない体勢を整えてからだ」


 武田信玄は、徳川家康を大器と認めた上で、『後で必ず攻略する標的』と言明する。

 倒せる敵であると、言い切った。

 これを言える自信満々のカリスマ主君と、無邪気に彼を信じる家臣の絆が、うだつの上がらない山国を戦国時代で最も迷惑な侵略国家に創り上げた。

 言い終えると、信玄は小姓達に酒宴の準備を始めさせる。


「今宵は、飲み納めだ。次に飲むのは、甲斐に戻ってからになる」


 お屋形様のお勧めなので、武田の諸将は安心して酒宴に臨む。

 一名を除いて。


「あのう、お屋形様」


 最もマトモな重臣として重宝している工藤昌秀が、飲む前に、こっそりと確認を取りに来る。


「一つ、お聞きしてよろしいでしょうか?」

「何々? 声を低くしないと、ダメな事?」


 信玄は、脳に回りつつある酒精を気合いで押し留めながら、工藤の質問に集中する。この能臣の問いに、無駄な事など一つもない。


「上杉が、静か過ぎませぬか?」

「…冬だ。雪の峠を越える為に軍を出すには、相当な理由がある時だけではないか」


 言いつつ信玄は、それが謙信と戦わずに済むからという心情から発した楽観だと気付く。


「武田本国にも我らの背後にも回らず、北条にも攻め込まない。確かに、静か過ぎるな」


 徳川家康から東海道戦線の情報を受けながら、何もしない。

 そんな上杉謙信は、あり得ない。

 

「…まあ、いくらなんでも、今夜此処に単騎で斬り込んでくるような真似は…するかもしれないが、その時は諦めよう。わし、もう彼奴と戦うのに飽きたし」


 工藤は笑って、酒杯を明け始める。

 最高責任者に懸念事項を丸投げして、もう気兼ねなく飲みに入っている。

 信玄は、酒杯を再開しながら、無意識に西の方角を度々睨んだ。




 夕暮れに呼びつけられた吉良義安は、夜襲に備えて篝火の量を倍増する本陣の忙しさを横目に、爪を齧る癖を懸命に我慢する徳川家康と向かい合う。


「吉良さん。頼む。急な客人を、吉良さんの陣で持て成してくれ」

「はい、分かりました」

「分かったのか?! もう察したのか?!」


 人質時代の兄貴分に、家康は目を剥いて声を高める。相当に緊張して、反応が過敏に過ぎる。


「…ええ、客人の名前以外は…」

「あ、ごめん。説明不足だった。イキって済みません」

「接待の仕事でしたら、誰であろうと大歓迎ですとも」


 客人が誰なのか分からないが、戦とは無縁な用向きなので、吉良義安はお気楽だ。

 今川の人質として過ごした青年時代に、教養人としてのスキルを伸ばし過ぎ、戦場では後方支援任務を有り難がる草食系武将なのだ。

 温厚な吉良義安を怯えさせないように、家康は自分の茶道具から抹茶の入った茶壺を全部手渡す。


「抹茶は惜しまずに使うと良い。足りなければ、自分の名前を使って購入して構わぬ」


 吉良義安は、家康の客人がだと理解する。

 前に同様の仕事を任された時の客人は、織田信長だった。

 目付きとか雰囲気とかメッチャ怖かったが、茶人の振りをしたら意外と優しくされた。


「で、殿。相手の名は?」


 家康が、言い淀む。

 言いたくないというより、今現在の客人の名前を伝えて通じるかどうかという不安もある。

 何せ、地位が変わる度に名前を律儀に替えている。


 その客人はセッカチなのか、言い淀んだ家康の緊張が緩むのを待つ気はなく、隣の部屋から移動して姿を見せると、吉良義安の前に座って一礼する。

 黒い僧衣を羽織った身長六尺約180センチ偉丈夫細マッチョが、吉良義安に対して紛れもない敬意を払って頭を上げない。

 血筋だけで言えば、吉良家は清和源氏の足利氏流。今川家と同格の名家ではある。だが、戦国時代に突入して没落ルートを激しく邁進し、三河で僅かな地盤を残すのみ。

 現当主である吉良義安が家康の親友でなければ、名すら現代に残っていなかった可能性もある家門である。

 それに本気で礼儀を尽くすなど、どうかしている。

 どうかしているが、僧衣でも隠せない武将の気配を漂わせる男にとっては、自分以外の価値観がどうかしている。


「上杉輝虎てるとらと申します」


 僧衣の偉丈夫が顔を上げると、隠しようもない飲酒の匂いが吉良の鼻腔を犯す。

 普通なら顔を顰める状況だが、イケメン男の生気に満ちた陽性の笑顔に、なんか許してしまう。


「先日、齢三九になりました。厄年が来る前に、他国の戦見物をしてみたく、足を伸ばしました。どうか、一介の暇人として遇して下さい」


 後ろに控える超絶美形の侍が、ビッグネームに硬直する吉良を解そうと声を掛ける。


「放置してもいいですよ、お忍びの現実逃避ですから。ヘタレの酔っ払いです」

「長親ぁ――――!!!!」


 輝虎が雷鳴の如き叱咤を発しても、河田長親は涼しく流す。

 脇に控える本多忠勝が目顔で家康に「この酔っ払い、追い出します?」と問うが、家康は無視で拒否した。

 輝虎は激昂を引っ込めると、吉良さんに対して弁解を始める。この奇特な最強キャラの基準では、この場にいる人物で最も敬意を払うべきは、吉良さんである。


「越後が一向一揆で苦しいので、徳川殿に知恵を借りに来ただけです。交換に、今川との和睦を仲介します」


 上杉輝虎は今更威厳を発揮しようとするが、既に失敗している。

 吉良が抱いた第一印象は、『酔っ払った無駄イケメン』になってしまった。


「吉良義安です。静かに茶を飲みながら過ごしたいだけの、趣味人です」


 後で五歳になる長男を抱っこして貰おうと、密かに微笑む吉良さんだった。



 上杉輝虎。

 紛らわしいので、最も有名な上杉謙信で通す。

 この訪問は史実にないが、歴史小説の醍醐味としてツッコミは不要に願う。

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