第29話 その日、降った雪は、無表情だった(4)

 1569年(永禄十二年)二月十八日。午後三時。


 掛川城周辺の雪景色を見渡して上機嫌の酒井忠次に、服部半蔵(使番なう)は不穏なモノを感じてから、急いで自己否定して考え直す。


(この人だって、鬼や悪魔じゃないのだから。雪景色に見惚れる事だって…)


「これで掛川城の逃げ道は、堀から付近の川に船で出るしかなくなった。川に見張りを増やして、出る船は片っ端から破壊する」


 今川嫌いの全力発露に、服部半蔵は鬼面を凍り付かせる。


「船で真っ先に逃げ出すのは氏真一家であろうから、この戦も終わるぞ」

「いえ、殿の望みは、今川氏真に『遠江の支配を、正式に譲り受ける』事ですので」

「ああ、戦で殺されておらねばな」


 徳川家康の基本戦略を、徳川のナンバーツーが踏み潰す気でいる。

 酒井忠次は掛川城から視線を動かさずに、半蔵に問う。


「お主まで、殿や米津と同意見か? ここで逃せば二十年後には、また今川が大きな顔をしているぞ」

「敵でなければ、どのお家が大きな顔をしても、構いませぬ」


 半蔵の乾いた返答に、忠次はドス黒い本音を浴びせかける。


「殿は、今川義元よりも、国を大きくするだろう。その正室は今川の出で、若様は今川の血を引いている。人質を殺される犠牲を払って、三河は今川から独立したのに、衰退した今川が、我らの努力を土台に再興する。わしは、今川の踏み台になる未来は排除したい」

「殿は、そこまで執念深く出来ませんよ」


 半蔵は、付近でドン引きしている酒井家の面々を見渡す。


「家来衆も、その執着には付いて行けないようで」

「だから出世せんのだ、彼奴らは」


 実際、酒井家の歴史で大河ドラマに描かれるような大功を立てた人物は忠次一人で、後は徳川の重役一門として緩々と過ごしていく。

 ともあれ、この時点で徳川家最高位の武将として内外から評価される酒井忠次への家康の態度は、相当に気遣いが払われている。


「殿から武田信玄への書状は、これで全てか?」


 雑談をしながら進めていた作業を終え、忠次は書状に封をし直して半蔵に返す。


殿、これで全てです」


 家康は、武田信玄宛の書状を、出す前に酒井忠次に確認させる。

 壊れたばかりとはいえ、今回の武田との同盟を交渉・成立させたのは酒井忠次である。彼の頭越しに、武田へ重要な書状は送らない。

 後年のワンマンぶりが嘘のように、この頃の家康は首席家老に気を遣っている。


「…まあ、いい」


 忠次は深くツッコミを入れずに、半蔵を下がらせる。

 下がった半蔵は、使番の三人に書状発信の認可を出す。武家、商人、山伏に扮した三人は、同じ書状を携えて時間やルートをずらしながら敵地に書状を届けに行く。郵便も電子メールもない時代なので、必ず届けたい書状の発信には、ここまで念を入れる。

 用事を済ませて服部&米津混合隊の陣に戻ると、服部半蔵は鎧の修繕を行っている米津常春に挨拶をしに寄る。


「復帰?!」

「まだです」

「元気そうだよね? 雪道を馬並みに早く走ってきたし」

「雪解けに合わせて、最終戦の開始です。このタイミングでの配置替えは、ないです」

「監軍の役割は、年食った俺の方が向いていると、思わないかい?」

「今回の監軍の役割は、朝比奈泰朝の相手が主目的ですが」

「構わないよ」


 服部半蔵は、米津常春が戯言でも言い訳でも苦し紛れでもなく、本気で東海道最強の相手をする気でいるので、側で雪上用草鞋を量産している更紗に確認を取る。


「何か好戦的になる薬でも盛ったのか?」

「失敬だな、半蔵様は。仮にも上司である人物に薬を盛るなど、年に四回ぐらいしかやらない!」

「あの薬か」

「そう、あの薬であって、好戦的になる薬ではない。手厚い謝罪を要求する」


 半蔵は更紗を簀巻きにして自由を奪うと、常春に据え膳する。


「そろそろ我慢出来なくなる。これで解毒してくれ」

「これはこれで〜、計画通り〜」

「いや、これはエロ薬を盛られたのとは、関係ない」


 薬で勃起したままでも性欲に流されずに、常春は対朝比奈泰朝の話題を続ける。


「俺が倒しても、構わないだろ。朝比奈泰朝を」



「おかしい」


 雪路を東へと撤退する武田の軍列で、武藤喜兵衛は出浦盛清から不審な情報を耳打ちされる。


「徳川が、東への布陣を解いた」

「…ほう。第一陣が退いただけで、警戒を解くような…温い武将ではないよなあ、三河守は」


 徳川のその出方が意味する事を考えて、武藤喜兵衛は雪よりも酷い寒気に見舞われる。


「おいおいおいおい!? どうしたら、武田の第二陣は来ないなどと、決め付けられる?? あの若狸、北条とでも手を組んだのか?」

「それを探りに行くから、数日抜ける。お屋形様には、お主から伝えておいてくれ」

「わがっだぁ」


 力を込めて快諾する武藤喜兵衛の視界から、出浦は影も残さずに消える。

 友の見送りを諦め、武藤喜兵衛は嬉々と今後の抱負を考え直す。


「徳川家康の首を挙げる時は、黄金甲冑を装備している時と決めておったが・・・殺せる時に殺しとこう」

 

 戦さ場や暗殺等で手段を問わずに徳川家康を殺そうとした回数で、武藤喜兵衛は間違いなく史上最多を誇る事になる。

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