第17話 久能氏の苦悩
1569年(永禄十二年)一月十五日。
徳川の軍勢は、見附(現在の静岡県磐田市)の見附城に本陣を移して正月を越していた。
掛川城からは、街道を西へ三時間半の距離。
お互い、奇襲は出来ない距離感である。
膠着状態を長引かせるには、最適のポジション取りなのだ。
北条の目論見通り、徳川家康は武田の苦境を暖かく見守った。冬だけど。
「あのう、服部半蔵くんの怪我の具合は、如何でしょう? あ、これ大根の漬物です。事後にどうぞ」
米津常春の本心が見え見えの見舞いに、月乃は笑いを堪えながら屋敷(仮住まい)の奥へ案内する。
案内された部屋では、
肝心の半蔵は、
「久能
半蔵が、鬼面で
「宗政や佐方は、付き添いに過ぎないと思います」
「推測だけですか?」
気弱な物言いに確証を求められ、久能宗能は言葉を慎重に選ぶ。
今川から離反して一月しか経っていない久能の立場を、当主自らの言行で削り落とす訳にはいかない。
「私が徳川に下ると決断した際、最後まで現状を理解せずに掛川城に走ったのは、宗益だけです。他は、今川に再起の可能性が無い事を理解しております」
「では、誅殺するのは宗益だけ。後は軟禁のままで」
「それでお願いします」
「誅殺は、某が為してよろしいか?」
半蔵の確認に、久能宗能は間を溜めずに返答する。
「叔父は自分の手で討ちます」
半蔵が頷き、高力清長から差し出された薬湯を飲む。
半蔵の鬼面が、苦味に歪む。
常春は半蔵の全身を観察して、傷の有無を確認する。
「怪我は治っているよな?」
「
「え〜〜」
嫌がる常春に、久能宗能が頭を下げる。
「すみませぬ。徳川に鞍替えして一月で、裏切り者を出しました」
「え? 俺に頭を下げる話の流れ?」
「五日後、掛川城から久野城に、攻撃が行われます。徳川が応援の為に久野城に入った際、内応して殿の首を取るようにと、叔父・宗益が今川からの策を持ち込んで来ました」
「は?」
常春は、前提からしておかしい話に、違和感で頭が満ちる。
掛川城から久野城まで、徒歩で二時間の距離である。兵力を分けて送り出すには危ない距離であり、掛川城の援護抜きで徳川の軍勢と戦えば、返り討ちは必定。
何より、一番の新参者である久能に裏切りを持ちかけても、成功の可能性は極めて低い。
乗る方がおかしい。
掛川城の城主は、そんな策を立てるような馬鹿ではない。
そもそも…
「いや待て。掛川城は、出撃する準備をしていないぞ? 俺、日に五度は確認させているから、兆候が有れば、必ず分かる」
「…では、叔父は…」
「掛川城の誰かに、撒き餌にされたな」
半蔵は、薬湯のお代わりを求めて椀を差し出す。
高力清長は、久能宗能の頭を片手で撫でて気遣いながら、二杯目を用意した。
見附城の徳川本陣では、家康が酒井忠次と差し向かいで話を進め、周囲の重臣達は寒気に襲われていた。
本陣には火鉢を適度に配置していたのに、徳川のNo. 1とNo.2の会話は、歴戦の猛者達を凍えさせていく。
久野城の見取り図を指しながら、酒井忠次は戦術を語る。
「掛川城の軍勢が久野城に近付く前に、殿は本丸へ入る…と見せかけて、五つの部隊を伏兵として周囲に配置。掛川勢を迎撃します」
遠江国及び周辺の地図を睥睨しながら、家康はこの掛川勢の出現ルートに目を凝らす。
「ふむ。掛川城そのものに、動きは無し。新しく加わった伊豆水軍は、補給のみだし」
家康は、爪を齧り吐き捨てながら、結論を口にする。
「
本陣の総員が総毛立つ中、酒井忠次は涼しげに意地悪を言う。
「早く今川に止めを刺さないと、こっちも攻め取るぞ、という意味の牽制ですかな」
「北条四万五千を相手にするより、徳川一万から食糧を分捕った方が、楽だものな」
「では、早く潰しますか、今川を」
「よし。では準備をしようか」
家康は、爪を齧る悪癖を中断し、最優先の軍事目標を伝える。
「久野城に近付く敵勢力を殲滅する。今川の軍勢と見做して叩き潰す。実は武田の軍勢ですという命乞いは、聞かなくていい。同盟軍の武田が、約束を違えるはずがないし」
家康の下知に士気を上げる一同を他所に、憮然とする酒井忠次に釘を刺す。
「どうせなら強い方と戦いたいよな、忠次」
「強過ぎる敵とは戦いたくないですな、殿」
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