第5話 今川家は衰退しました(3)
朝比奈泰朝が馬で出発するのを城下町の隠れ家から見届けてから、服部半蔵は今川館の勝手口から内部に侵入した。
普段の顔だと一発でバレるので、穏和な一般人のごとき笑顔で顔を固めた上で掃除中の奉公人を装って顔を布巾で半分以上隠している。
人の視線から絶え間なく外れるように動く方法もあるが、今回は引っ越し作業もあるので、この作業服を選択。
「いやあ、ショックだな。服部半蔵が、未だに前線で潜入の仕事とか。普通は下忍の仕事だろ」
剽悍な顔の青年侍が、奥に進もうとする服部半蔵を呼び止める。
その狼のような鋭い眼光が、服部半蔵の全ての動きを捉える。
武田との鍔迫り合いが始まって以来、何度も殺し合った仲なので、半蔵には殺気だけで誰だか分かる。
服部半蔵は、人気の少ない武器庫の一つに入る。
今川館の内部構造を頭に納めている半蔵は、二人きりになれる環境下で、その若者と相対する。
お互い、邪魔だが殺せない強者同士なので、作戦途中で遭遇すると話し合いで牽制する。
「
相対する若者は、半蔵と違って変装を一切しないまま、今川館を自由に闊歩している。
半蔵の使役する伊賀忍者の構築したルートとは別に、武田は今川中枢部へ根深く巣食っている。
「それがさあ、出世しても、手下の働きが気になって。こうして先回りして、難易度を確かめている」
嫌な上司である。
武田の武将兼忍者である出浦盛清は、主人を変えながら大坂夏の陣後まで生き延びた長命な人物だが、部下に任せた仕事を先回りして査定する癖は生涯直らなかった。
「で、何の仕事だ?」
いつでも手刀で首を刎ねられる体勢を取りながら、服部半蔵は静かに問う。
盛清は、いつでも小太刀でカウンターを取れる体勢で、会話を続ける。
お互い、隙を見たら殺したくなる縁なので、こうして構えている方が何事もなく会話を続けられる。
「これは、同盟した軍の武将同士の情報共有だよな?」
「勿論だ。敵の本拠地での作戦行動中だから、齟齬を無くしておきたい」
徳川と武田の忍者担当部署のトップ同士の対談である。
マトモで正直な話し合いなど、行われるはずがない。
「半蔵から言え。先に見つかったのは、そっちだ」
「…よかろう。今川館を、焼き払いに来た。全て灰にする」
盛清は目眩を堪えて問い返す。
「いつ?」
「今から。朝比奈泰朝を足止めして、掛川城への到着を遅らせる」
「やめろ」
「奴の最優先事項は、今川一家の安全」
「ダメダメ」
「あわよくば、まとめて炎の海に。これで掛川城は三日以内に落とせる」
「お願いだから、二日待て」
「ぬ? どうせ二日後には、武田が焼き尽くしてしまうではないか。今焼いた方が、徳川には都合が良い」
大きな声を出さないように苦労をして、盛清は鬼面の忍者に事情を説明する。
「
「ふむ。信玄坊主は、親子丼を所望か」
占領地の美姫と家族計画を実行する事に恥じらいがない武田信玄なので、半蔵はそう結論付けた。
エロい想像をする服部半蔵に、盛清は主人の弁護をする。
「北条経由での依頼だ。母娘は先代の娘と孫、当代の妹と姪になる。保護すれば、北条は武田の駿河侵攻を黙認する」
「何だ、密約済みか」
「密約も何も…三国同盟(今川&武田&北条の不可侵条約)は、武田と北条の間では、生きたままだぜ」
今川氏真視線で見ると、北条は「いつでも力を貸してくれる頼もしい叔父貴」ポジションだが、北条から見た今川氏真は「いつまで向いていない商売続けとんのや? 早よう店畳んで、利権はこっちに寄越せや。悪いようにはせんから」と言いたくなる駄目な親戚ポジションである。
この当時、最強クラスの強さを誇る武田と戦ってまで今川を守る気は、全く無い。なにせ北条は、軍神・上杉謙信に最優先攻略目標として何度も攻められている。武田と上杉を同時に相手にするなんて、馬鹿な真似は出来ない。
「それを聞けて良かった。で、いつなら焼き払っていいかな?」
「中止しろ。
「馬場って、不死身の鬼美濃?」
「そう。馬場(信春)様だ。三河の本多忠勝と同じで、何十回戦に出ても、傷一つ負わない方だ」
「あの?」
「そう、あの。お屋形様の前に、馬場様にブッ殺されるぞ」
鬼面が笑顔に歪むのを見て、盛清は半蔵がVS馬場信春戦闘を想像しているものと決め付けた。
武田が全国に敷いた情報網に、伊賀忍者の情報網で対抗し続ける好戦的な挑戦者。
この時代の武田には、織田信長ですら土下座外交を貫いているというのに。
数年後には激突するであろうVS武田戦に備えて、先陣を切って情報戦を行う服部半蔵は伝説に成りつつある。
「ふむ。事情は分かった。やはり情報の共有は、大事だな」
「うん、そうだろう? という訳で、もう今川館には近付くな。掛川城に専念しろ」
「そうしよう」
「部下には、今の会話を申し送っておく。近寄るなよ?」
「君は薩埵峠へ?」
服部半蔵は、井浦盛清も今川館から退館する事を確認した。
井浦盛清は、服部半蔵の目を凝視し、殺気を込めて射竦めようとする。
服部半蔵は、それ以上の会話を打ち切って、退館する。
静まり返った武器庫で、井浦盛清は部下への申し送り事項に一言付け加える事を検討する。
(服部半蔵は、隙を見て殺しておけ…いや、部下には無理か)
難易度を査定し、井浦盛清は追加の命令を諦める。
それでも気になって、服部半蔵が素直に退館したかどうか、後を視線で追ってみる。
清掃スタッフを装った服部半蔵は再入館すると、そのまま宝物蔵に入り込み、半刻ほど掃除をしてから退館した。
門番たちは気付いていないが、盛清は半蔵の衣服が、やや厚みを増している事に気付く。
(何か盗んで行きやがったな、むっつり忍者め)
徳川も財宝目的だとすると、先程の焼き払うという話も怪しい。
追いかけようかと思いつつ、今度こそ本当に服部半蔵は退館して去って行く。
駿河の城下町から去った訳ではないので監視を続けたい誘惑に駆られる盛清だったが、今回は三河勢も余計な作戦行動はしないだろうと判断し、本来の仕事に専念する。
ほどなく今川氏真が出陣した。
最低限の居留守役しかいない駿河城今川館で、井浦盛清は変装を全くせずに罷り通る。
今川家当主の正室と娘が住んでいる奥の間まで、既に買収されている者共が案内をしてくれる。
寿桂尼が死去してからの半年で、それ以前の七倍の人数が調略に応じている。
徳川は国境の国人領主から順々に根気よく調略しているが、武田は中枢部にも積極的に調略を進め果せている。
失敗しても、調略対象が今川に粛清されるだけなので、武田の方には損がない。
真面目で融通の利かない人材は淘汰され、チャンスがあれば武田の為に働く人材が残っていく。
「失礼致します。武田家家臣、井浦盛清と申します」
写本をしていた二十代半ばの高そうな衣装を着こなす貴女が、見知らぬ男のアポなし参上に眉を顰める。
時間が迫っているので作法を省き、顔を上げて目を見て話そうとすると、井浦盛清は先程の半蔵の邪推を思い出して動揺する。
氏真の正室・春名の顔は、端麗・色艶・気品・可憐さが絶妙な黄金律で配分されている。これに高級な化粧が加わると、写真集を発売したくなる絶世の美女が完成する。
保護すると言い出した信玄が邪推されても、無理がない程に美しさの詰まった女性だ。
珍しく惚けて身動きが止まった井浦盛清に対し、春名様は気品高い声を発生する。
「武田の当主が、寝盗りたくなる域の美人故、対応に困ったか」
事実なので、自分で美人だと言っても全然嫌味にならない。
井浦盛清は、話を聞いてもらうどころか、その先の心配までしている春名様に対し、信玄との初対面の時よりも緊張する。
二日後予定の送迎係との合流を話し合うのに、『武田が此処を攻め滅ぼす前に保護しますから安心してね』ではなく『信玄坊主はNTR目的で拉致しろと言っている訳では無いので、勘違いしないでよね!』というポジションから始めなくてはならい盛清のストレスを察して欲しい。
しかも武田ボスには、前科が指折り有る。
「我が主人は、既に余る程の側室を侍らせ、多くの子宝にも恵まれております。満足しておりますし、北条の姫君に懸想して外交問題に及ぶ真似は、絶対にしません」
「満足していたら、他国に一万八千の軍勢で攻め入ったりはせぬ」
春名様は写本を止めて、武田から来た新しいオモチャを弄りにかかる。
「戦国乱世であるのを言い訳に、強盗殺人と強姦を楽しみとする外道の軍勢じゃ、武田は。自己弁護には及ばぬ。他国から見た武田の評判は、客観的に受け止めるが良い」
盛清は、真っ向から春名様の眼光を受けて応える。
「貴方様も、それを生業とする者から生まれ、育まれてきた御仁です」
盛清の遠慮を排除した物言いに、春名様は好意的な笑みを向ける。
「二日後、加害者であった今川家が、被害者に落ちます。北条からの要請で、武田は春名様と姫君の保護を約束しました。武田の送迎係が来た折には、大人しく同行して下さい」
はっきりと今川が武田に滅ぼされると宣言した盛清に対し、春名様は嬉しそうに持ち札を一枚めくる。
「わらわは、幼馴染の徳川殿を頼ろうと思うておる。彼奴も助平ではあるが、側室は身分の低い者ばかりを選び、
(むっつり半蔵の野郎、先に手を回していやがった〜! 何が『焼き払いに来た』だ)
盛清は、頭も眼球も動かさずに、室内外の侍女の様子を確認する。
侍女の中で二人、微動だにせずに、気配を絶っている手練れがいる。
(今川の忍びなら、既に買収済み。気配を殺す必要があるのは、半蔵の配下だな)
盛清は、その二人の顔を見たい誘惑を抑え、その場を締めに入る。ほとんど買収済みの敵地とはいえ、余計な騒ぎを控えた。
「選択肢が多いのは、良き事です。二日後、何方に保護されるのか、よくよく考えてお決め下さい」
盛清は、無理強いをせずに春名様の間から退室しようとした段階で、その姫の挙動に気付いた。
春名様の侍女二人が壁になる形で隠している、その姫は。
今川氏真の一粒種、美朝姫、九歳と認識している。
小さい身体を更に低くして、居合斬りを放てる体勢で、盛清を見据えている。
(ひょっとして、極めて低身長の、伊賀忍者だったりなんかしちゃったりして)
盛清は観察し直すが、どう見ても十になるかならぬかの少女である。
顔の整い様と目鼻の類似性からして、春名様の娘で間違いない。
「美朝。勘付かれた以上、お止しなさい」
春名様の制止を受けて、美朝姫は不満そうに居合斬りの体勢を解く。
手に持つ刀の重さを感じさせぬ立ち振る舞いで、美朝姫は侍女に刀を預けるのを断って盛清に近付く。
父親がボンクラでも、娘には今川と北条の遺伝子がクライマックスに受け継がれている。
盛清としては、対応し辛くて泣きたくなった。
下手を打てば、怒った北条が武田に宣戦布告してしまう。
盛清のハートがチクチク痛んでいる事など御構い無しに、美朝姫は母親似の幼美顔に外交スマイルを浮かべながら、挨拶をかます。
「ねえねえ、武田の人。居合斬りの練習台になってくれないかなあ? 背中を向けて、目を瞑って十数える間に、美朝が三ぐらいで居合斬りを決めるの」
盛清は、逃げた。
後でその様子を報告で聞いた服部半蔵は、それはもう見事な霧隠れの術であったと知らされた。
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