第46話 さつきかな

 1582年(天正十年)六月二日、夜明け前。

 京。


 日根野弘就ひろなり(六十三歳・現役)は、火縄銃の臭いを嗅いだ気がして、飛び起きた。

 同時に、誰かに呼ばれた。


「佐吉?!」


 枕元の五十匁筒大火縄銃を構えたものの、これの臭いかもしれないと思い直して、座り込む。


「夢かよ」


 宿に泊まっていた他の家臣達も吊られて起きてしまうが、主人が寝惚けただけかと思って、寝直そうとする。

 この時期の京で、戦争の脅威を感じる者などいない。


 武田は滅びた。

 北条は織田に恭順を誓った。

 上杉は謙信が死んで以降、織田に攻められて滅びる寸前。

 中国地方の連合大国毛利も、羽柴秀吉軍団によって連合の半分を失い、休戦か降伏かの二択しかない。

 その他の戦国大名は、織田に恭順を誓って所領の安堵を乞うしかない段階である。

 戦国時代は、もうすぐ終わる。

 殺し合いで政治を決めるクレイジーな時代が、ようやく終わる。

 終わるはずだった。

 終わって欲しかった。


 寝直す部下達の中で、弟の盛就だけは、兄の戦勘を熟知しているので刀を手にして覚醒する。


「一応、散歩がてらに偵察をしましょう」

「行くな」


 日根野弘就は、この感覚を思い出そうとする。


「動かずに、ごく普通の宿泊客を装え」


 日根野弘就は、思い出す。

 足音を立てず、馬の気配を殺し、武器を鳴らさないように気を配り、声を潜めて進み行く、数千の軍勢の息遣いを。

 日根野弘就が、その長い人生で散々やった戦術である。

 やられる立場に立たされて、日根野弘就の全身に鳥肌が立つ。


「…誰だ? 誰が明智の軍勢を掻い潜って、京に…」


 そこまで考えて、日根野兄弟は声を殺して驚愕の叫び声を抑える。

 だって、他に京周辺に千を越す軍勢は存在しない。

 宿の二階から木戸を少し開けて、信長が宿泊している本能寺の方角を見る。

 本能寺を囲み終えた軍勢が、桔梗紋の旗を揚げた。

 明智光秀の軍勢で、間違いない。


「現かよ」


 その段階で、日根野兄弟は信長の救出を諦める。

 名将・明智光秀が奇襲を完璧に決めて包囲殲滅を行う以上、信長&馬廻親衛隊百名の命運は尽きている。


「良かった〜、一緒に泊まらなくて」


 兄の正直な感想に、弟は吹く。

 織田に仕官して七年経つとはいえ、それに至るまで散々に反織田勢力に付いて暴れた日根野である。

 馬廻に取り立てられて安土に屋敷も与えられる立場にはなったが、同じ場所での寝泊まりを許される程には信用されていない。

 とはいえ、今の日根野一門は織田家の馬廻である。

 まだ。


「ん〜、信長は救えないから、妙覚寺に寄るかどうか、だな」


 妙覚寺には、信長の嫡男・信忠が宿泊している。

 織田家当主の座は、信長が既に信忠に譲っており、彼が存命である以上、織田家は勢力を保ったままである。信忠が存命であれば、未明の惨劇は織田家の天下を揺るがすような事態にまでは発展しないで済む。

 つまり、日根野が再び浪人生活を送る心配が無くなる。

 

「お、まだ持ち堪えているな、本能寺。これなら、中将織田信忠様が逃げる時間は稼げるかも」

「明智が見逃すか?」

「すぐに逃げれば、何とかなるだろ」

「…ひょっとして、久しぶりに殿しんがりですか?」

「…朝飯食ってからにしようか」


 馬廻として最低な決断『静観』を決めた日根野の宿に、信忠の馬廻をしている日根野高吉たかよし(弘就の長男)が駆け寄る。


「親父! 殿は二条御所に移動した! 合流してくれ!」


 父親を反面教師にして真面目で律儀な武士に育った高吉は、普段通りに生活を続けようとする父を見て絶句する。

 父の方は、息子のもたらした情報に、絶句する。


「意味無いだろ、二条御所に籠っても。逃げないのか、中将織田信忠様は?」

「おう! 右府信長様が生きている可能性に賭けて、逆賊・明智と戦う」


 高吉の武士らしい昂りと反比例して、弘就は織田家を諦めた。


「高吉。朝飯は、食ったか?」

「二条御所で食べるから、親父も一緒に」

「織田家は見捨てる」


 高吉はバカ親父を二秒凝視してからブン殴ろうと立ち上がるが、叔父の盛就がバカ親父への同意を表して止める。


中将織田信忠様の兵力は、明智の十分の一以下だろ。勝てない戦に加担するな。逃げずに無謀な戦いを決めた時点で、主人とは認めるな」


 高吉が激昂を抑えて握り飯を食いながら、意地と保身を秤に掛ける長考に入ると、宿屋の前に、明智の兵が使者として現れる。


「あ、あの、日根野殿ですか?」


 相手が殺気を出していないので、弘就はゆっくりと味噌汁を啜る。


「食事中だ。出直せ」

「あ、いや、殿が、直接に、合力をと」


 流石に、日根野一家も食指を止めた。

 兵の手招きで、慌ただしく白髪の老将が宿に入ってくる。

 飲みかけの味噌汁椀を見詰めて、涎を垂らしながら断りもなしに一気飲みした。

 飲み干すや、恍惚とした面持ちで絶叫する。


「美ぅ〜味ぁ〜いぃ〜ぞぉ〜!!!!」


 やや疎遠ではあるが、美濃斎藤家時代からの旧知でもある。弘就は、この男が既に大きく壊れているのを悟る。

 明智光秀は、味噌汁の強奪を詫びもせずに、話を切り出す。


「日根野殿。全部燃やしてしまいましたよ。折角の大金星なのに。勿体無い。美濃の仲間にも見せてあげたかったのに。首が無いと、僕が信長を殺したとは、信じてもらえないかもしれない。残念です」

「酷いて手落ちだな。まあ、火を点けたのは、信長の方だろ?」

「当然ですよ。何でも燃やしてしまうから大嫌いだ、あのガキ(年齢差十一歳)。終いには、自分自身も国宝諸共燃やし尽くした。…いや、あのガキらしいのか、これはこれで」

「美濃の連中は、この件を知っていたのか?」

「え?」

「本能寺で信長を殺す件。相談していたのか?」

「まさか! 漏れちゃいますよ。身内だけでやりましたよ、身内で充分やれますから。仲間に引き入れるのは、これからです」


 計画的な犯行ではなく、発作的な犯行だと知れた瞬間、日根野のみならず、京周辺の武将達は、明智光秀への合力を断る。

 各々、上手い方法で。

 何せ下手に断ると、明智軍の矛先が向いてしまう。

 喪に服したり死んだふりをしたり、他国へ逃げ延びたりと、明智軍とは縁を切っていく。

 弘就は、思慮深く考えてあげているような顔をして、親身に提案する。


「俺、今は情報を集めてから身の振り方を考えたいからさ。美濃と書状のやり取りをしていいかな? 連中と相談したい」

「え?」

「京の情勢を詳しく知れば、美濃の連中が上京して合力してくれるだろう。何せ、美濃の人間が天下を取ったのだ。勝ち馬に乗りに来るさ」

「そうだよ! そうですよ! 僕は今、勝ち馬です! 勝ち馬なのです!!」


 大いなる歓喜を表して天を仰ぎながら、明智光秀は必死に眠気を払いながら、言葉を振り絞る。


「美濃の事、お願いしますね、日根野殿」

「うん、任せて」

「お願いですよ」


 こうして日根野弘就は、信長の馬廻でありながら、本能寺の変を静観してやり過ごすという生存戦略を成し遂げる。

 一件片付いて安心したのか、明智光秀は立ったまま寝掛ける。


「うん、君、徹夜明けだろ? 少し寝ておけ」

「まだだ!!!!」


 明智光秀は、白髪を逆立てて、戦闘モードに戻る。


「まだ、信忠の首を取っていない! あいつの首ぐらい晒さないと、みんなに信じてもらえない! それと家康だ! あいつの首も取らないと、僕が天下を取ったと、信じてもらえない!!!!!」

「うん、がんばってね」


 無責任な激励を受けて、明智光秀は宿から出て戦場へと歩いていく。

 徹夜明けでフラフラと、まだ戸惑いがちな家来達に支えられながら、クーデターの仕上げに進軍していく。


 それを見送る日根野高吉は、静かに泣いている。

 第六天魔王を自称する絶対的な支配者が、朝飯前に焼き尽くされて消え失せた。

 壊れかけた老将一人に覆された現実世界の脆さに、泣いている。

 この無意味な破局の訪れに、泣いている。

 

「親父ぃ」

「うん?」

「織田信長って、何だったんだよ?」

「はあ〜?!」


 えらい質問をしてきた息子に、弘就は本能寺の方向に視線を向けて答えを求める。

 もう、何も無い。

 死に絶え、焼き尽くされた。

 煙だけが、飽きもせずに昇って天へ還っていく。

 確かに、信長らしい最後かもしれない。

 残された地では、あちこちで騒ぎに乗じた暴動が起きつつある。

 魔王不在の地獄が、京に出現しつつある。


「幻か」







                                     鬼面の忍者 第二部 完






               Next ジ・エンド・オブ・三方ヶ原



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