第三部 袋の中の戦争
第44話 時は今
「で、朝比奈泰朝は、今何処に?」
1582年(天正十年)五月十四日。
時系列を、物語の冒頭に。
番場(滋賀県米原市)の宿舎に、舞台を戻す。
夕餉の支度に入る頃に、井伊直政は服部半蔵の話を遮って太田又一を押し退ける。
「すみませんが、今は父上の仇の行方を知りたいので、割り込み御免!」
反論される前にマウントを取ると、井伊直政は鬼面の忍者を真っ向から詰問する。
「太田殿に、掛川城の話をしている最中だぞ。開城まで、あと二ヶ月分残っている」
「引き継ぎに二ヶ月かけただけでしょ。もう掛川城の話は、終わっています」
「吉良の葬式の時に、美朝姫が」
「スピンオフで時間稼ぎなんてさせません。朝比奈泰朝は、何処に行ったのですか? 今川氏真が一年で亡命先の北条から帰郷した時には、側にいなかった。それ以降の消息が全く掴めない!」
井伊の赤鬼は鬼面の忍者に、腹に長年溜め込んだ怒りを打つける。
「あり得ない! あれだけの武士が消息不明だなどと、あり得ない! 名を変えた? 出家した? もしくは、風魔か服部半蔵が闇討ちでもしましたか? 俺の父を闇討ちしたように!!」
服部半蔵は、何も言わない。
「その沈黙の仕方。知りながら隠していますね、師匠」
「知らぬものは、答えようが無い。お主の妄想で勝手に話を進めるな」
父親の仇の件で意固地になる井伊直政をどう宥めようかと同僚達が気を揉んでいると、隣室に避難していた徳川家康が襖を荒々しく開けて一直線に直政に接近し、襟首を掴んで説教を始める。
「お主の父上は、今川に忠誠を誓いながら、わしに内通しようと動いた。どの様に討たれても、恨み言は言えない状況だ。わしが氏真の立場でも、同じ決断を下した! 尋常な裁きだ!
逆恨みは許さぬ。その件で納得出来ぬ程に怨恨で頭が曇っているのであれば、頭が冷えるまで帰ってくるな!」
井伊直政は、反論を一切思いつけずに、脱力して正座する。
息子視点で見れば「落ち目の今川家を見限って転職先を探したくらいで、殺すなんて酷いじゃないか」なのだが、大名視点で見れば「裏切る行動をした以上、処分は当然」なのである。
幹部クラスまで出世したのに甘ったれた認識を晒してしまい、家康に合わせる顔がない直政は、一礼してから外へ出て行く。
叱られて屋外へ追い出された井伊直政を見送り、太田又一は取材の続きに入る。
「今までで、最も苦労した戦いは、何でしょうか?」
見境なくというか勢いが止まらず、家康に取材の矛先を向けてしまった。
「どの戦も我慢ならない程に苦しい。楽な戦など一つもなく、やりたかった戦もない」
あまりの言葉に、太田は家康の顔を見てしまう。
口調は平静でも、文言には唾棄が満ちている。
気分を害してしまったかと表情を窺うが、家康の真顔は涼しく、心情を吐露しても眼光すら揺るがせない。
数々の戦国大名を相手取り、織田政権の実質No.2にまで評価を高めた傑物である。
太田のような変物を間近にしても、何の動揺もない。
「して、この問いかけの趣旨は?」
「私の趣味です」
太田又一のこの趣味が後世、織田信長を日本史上最も著名な人物にした。彼がメモ書きをまとめて『信長公記』を書き残さなければ、織田信長の知名度は三好長慶クラスで済まされていたかもしれない。
「いいなあ、趣味に興じる暇が有って」
趣味に割ける時間配分で生涯苦しんだ偉人は、表情を崩してしみじみと羨ましがる。
気分を切り替えようと日没前に地元の寺を捜していると、井伊直政は旅装の米津常春と出会す。
接待旅行のメンバーには含まれていないので何事かと構えてしまうが、常春の方は気楽に声を掛けてくる。
「何だイケメン小僧、酷え顔だな。体調を崩した本多康重を引き取れって言われたけど、お前もリタイアするか? 替わりに本多正盛を道中に加えるし、抜けた穴は気にしなくていいぞ」
どうやら支援部隊らしいので、直政は主君の用心深さを思い出して感心する。
織田が道中の安全を保障しても、セーフティネットは自前で備えている。
「殿に叱られたので、寺で気持ちを落ち着けようと」
「この時間に? 寺育ちは遠慮ないなあ」
「少し寄進すれば、蔵書を一冊読ませてくれる時間ぐらいは、都合してくれますよ」
「はあ、読書目当てか。俺には全く理解出来ない趣味だが」
「字が読めるのであれば、誰でも楽しめますよ」
「え? 本当に? 俺、騙されてない? 新手のスタンド攻撃?」
もうすぐ六十歳に届こうというのに、米津常春の気楽さは変わらない。こういうムードメーカーを引退させる気は家康には全くなく、もう米津隊は子息や弟の一門が実務を仕切っているのに、毎度同行を命じている。
「で、何で殿を怒らせた?」
常春のマイペースに和んで忘れかけていたが、先程まで掛川城攻略戦での活躍を聞いたばかりである。諦めきれずに、朝比奈泰朝と父の件を持ち出すと、米津常春は服部半蔵と同じ表情をして黙り込む。
当たりの反応で間違いないが、先程しくじったばかりの直政は、言葉を選ぶ。
「・・・あのう、怨恨ではなく、父の最期の様子を知りたいなあ〜と」
「いや、気を持たせちゃって、ゴメン。朝比奈泰朝の消息は知らないが、教えておきたい寺がある」
(来た〜〜〜〜!!!!)
直政の内心の喝采は顔に出ているので、常春は保険をかける。
「殿の蔵書を一部保管している高僧がいる寺でな。俺の紹介だと言えば、この時間でも会って本を貸してくれる(意訳・殿の読書フレンズだから、手を出すなよ)」
最後の台詞を、常春は直政にだけ聞こえるように、耳打ちする。
「誰にも付けられずに、行け。誰にも付けられずに、戻れ」
その声音は、本当に常春から発せられたのかと疑う程に、暗かった。
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