第27話 その日、降った雪は、無表情だった(2)

 1569年(永禄十二年)二月十八日。正午。


 秋山虎繁は、戦況を見渡しては見通しが厳しいと認識を改める。


「明日以降に持ち越しか」


 徳川本陣は、初めから秋山の部隊に備えて防御陣形を整えており、容易に攻め込ませてくれない。

 助っ人の武藤喜兵衛は、徳川の伏兵米津常春部隊とかち合って動けない。逆に、城攻めに掛かっていた部隊が呼び戻され、横合いから槍を付ける軌道に乗っている。

 しかも、雪が降り始めている。


「…いや、今川勢と組んで、徳川を挟撃出来れば…」


 秋山虎繁の甘い未練を本体ごとブッ殺しに、武田対徳川の戦場から、朝比奈泰朝の騎馬が抜け出て来る。

 進路上の武田兵は、まるでまな板の上の大根の如く、槍の大振りで斬り払われている。

 その動きに倣って、追い付いてきた朝比奈の部隊も武田の方に攻撃を掛けている。

 九年落ち目が続いた国の軍勢とは思えない突破力で、強兵武田を押し返している。


「徳川と今川が手を組んで、この愛の戦士を挟撃か」


 秋山虎繁は作戦を変えると、互いの表情が判るほどに接近して来た東海道最強を迎撃する。

 秋山虎繁が投げ飛ばした薔薇の花を、朝比奈泰朝は名槍・蜻蛉切で綺麗に真っ二つに。

 その隙に、秋山は距離を詰めて朝比奈泰朝に太刀の間合いで攻める。

 朝比奈泰朝は蜻蛉切を左手に、右手で太刀を抜刀して対応。武田の猛牛が浴びようとした斬撃は弾かれ、逆に瞬時に三度も斬撃を喰らって退く。

 片手だけで、東海道最強は武田の猛将を劣勢に追い込む。

 相手の右手、右肩、左脇腹に鎧が裂ける程の斬撃を浴びせたのに未だ相手が倒れずに太刀を向けてくるので、朝比奈泰朝も呆れる。

 更に武田の兵が秋山を置いて撤退を始めたので、別の意味で呆れる。


「指揮官自ら、殿しんがりですか」

「ご覧通り、頑強さにおいて強大無比。兵も安心して退ける」

「ただの色魔ではないようですね」

「愛の戦士をナメてはいけない」

「ナメてはいません。斬るだけです」


 馬に乗って逃げようとする秋山は、朝比奈泰朝が追って来られないように効き目抜群の捨てセリフを放つ。


「我々が退く以上、徳川は掛川城への攻撃を再開する。桶狭間の失態を、繰り返す気かな?」


 それを聞くや、朝比奈泰朝は秋山に背を向けて徳川の本陣へと馬首を返す。


「…この愛の戦士が、眼中にないとは。親子丼を一緒に食べるかどうか、聞きたかったのに」


 聞かれたらまた殺意の上げ高を更新しそうなセリフを置いて、武田の『徳川領侵犯部隊第一陣』は、退却に入る。

 この戦いを機に、徳川と武田は敵対国として徐々に戦さの回数を増やしていく。

 それでもまだ、掛川城の戦いは続いていく。



 蜻蛉切を持った朝比奈泰朝が本陣に戻って来た時は、降雪が始まった時よりも金玉が縮み上がったが、本多忠勝に蜻蛉切を投げ返すとそのまま掛川城へ戻って行ったので、家康は安堵する。

 安堵しつつ、掛川城の周辺兵力を整理し始める。

「この雪は積もるな。今日明日は、矢止め休戦にする。兵を退がらせて、休ませろ」と自軍の兵士に優しい指示を出しつつ、服部半蔵を呼んでチェックメイトに向けて作戦指示を出す。


「酒井忠次に、原川の仕込みを実行しろと伝えよ。それが実行された二日後に、本番を始める。久能宗能は、まだ生き残っておるな?」

「無事です。高力殿が付いております」

「榊原康政の部隊を付けて仕切らせろ。久能宗能が始末を付けられないようなら、康政にやらせる」


 一ヶ月前に発覚した久能から出た裏切り者(17話参照)を、家康は未だ

 泳がせておけば、本当に今川が彼らを伝手に襲撃をかけて来ると見越しての判断である。

 裏切り者を二度も撒き餌にする辺り、吝で名高い性格が露出しつつある。

 今降っている雪が溶けた後の戦略を指示し終えてから、家康は小姓たちに書状を書く用意を命じる。

 大真面目に文面を練っている最中に、小姓の制止を軽くいなして米津常春が目通りをしに押しかける。


「殿ぉー、雪が降ったので、矢止めですね。お酒下さい」


 二日は暇になると見越した米津常春が、戦塵を落とさぬまま本陣に立ち寄って、数倍の敵を相手にした『ご褒美』を強請る。


「常春。わしは今、信玄坊主と戦っている最中だ」


 家康は、恩人に言葉だけの警告で済ませる。

 怒りの発作は、筆を折るだけに留める。


「邪魔すると殺すぞ」


 戦国大名にとっては、書状も重要な戦略兵器の一つである。

 常春は手早く手近の酒樽を担いで退去した。

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