第7話 今川家は衰退しました(5)

 1568年(永禄十一年)十二月十三日。

 まだ朝飯前の時刻。


 馬場信春の率いる千名の部隊は駿河の今川館前を通過し、北西の賤機山城を攻撃。半刻も経ずに攻略すると、留守番役百名を残して今川館へ取って返そうとする。

 避難先を潰してからの、王手である。

 馬場信春の部隊が駿府に姿を現した事で、住民達は郊外や寺への避難を始めている。駿府の道路が避難する人混みで渋滞するが、武田軍がやって来る東側は空いている。

 馬場信春は、状況を涼しく見極めて、往路をそのまま戻って行く。

 馬場の部隊が何もせずとも、避難する人々は自主的に全速力で避けてくれた。


「まだこんなに民が残っているとはなあ」


 馬場の考えでは、昨日の段階で避難して然るべきなのだが。

 市街戦に持ち込ませない為に街を焼き払うのは、戦国の常識である。強いて一般市民を害するつもりはなくても、逃げ遅れた者に斟酌して焼き払い措置を遅らせる事はない。


「平和だったのだなあ、永らく」


 暖簾も終わずに逃げ出した商店街の有様を見物しながら、馬場信春は今川館前まで戻る。

 正門を護衛する武士達が、全身ガクブルで馬場部隊に向けて槍を構える。

 そのまま殺しても良かったのだが、馬場は目的の要人保護までは余計な殺戮を控える。

 馬上から、馬場は気さくに声を掛ける。


「今川殿は、まだ帰っておらぬのか? 馬場信春が身元を引き取りに来たと告げて貰おう」


 話し掛けられた方は、お互いに顔を見合わせ、対処に困る。


「わしに此処で投降していただければ、この駿府を丸焼きにする必要も無くなる。お主らも助かるぞ」


 そう言われても、門の護衛達は戸惑うまま、動こうとしない。

 その様子だけで、馬場信春は氏真が今川館に未だ帰還していないと判断する。


(はて? わしの部隊が追い越して先回りしたのは確かだが、今川館にも辿り着いておらぬだと? いくら不出来な武将でも、遅過ぎるな)


 馬場は馬上で思案したまま、普通に正門を潜ろうとする。

 咄嗟に止めようと構えた者達は、相手が誰かを思い出して仰け反って退がる。

 正門から入った馬場は、館の入口に貴人用の牛車が用意されているのを見る。

 用意されただけで、誰も出発準備を進めていない。


「ふむ。無能者でも、半年もあれば逃げ方に工夫を凝らせるか」

 

 馬場は牛を繋ぐ手綱を居合い斬りで斬り落とすと、牛を今川館の中に嗾ける。

 誰も、牛の入館に騒がない。

 馬場は館内の無人を確信し、門の護衛達に笑い掛ける。


殿しんがり、ご苦労だ、諸君。此処は燃やし尽くすから、逃げなさい」


 声を掛けた四人は、各々の方向へ逃げて行く。

 誰も同じ方向へ逃げない。


「…小癪な。二人一組で尾行しとけ」


 馬場信春は、保護対象者の逃走ルート探索を任せ、最後の任務・宝物の確保を始める。

 今川館敷地内の最奥に近い場所に立つ蔵は、既に扉が開け放たれていた。

 罠フラグが、目に見える形で立っている。


「此処も仕込み済みか」


 馬場信春は、泣きたくなってきた。

 今川氏真の撤退戦におけるポリシーは、『武田に美味しい思いはさせないもんね。バーカ、バーカ』で貫かれている。時が現代であれば、地雷や機雷を大量に撒いていただろう。

 部下に中から宝物を外へ運ばせると、少し検品しただけで仕込みが知れた。

 書物は全て模造品。

 金銀はメッキの張られた偽物。

 茶器は安物だけが残されていた。

 刀剣は刀身がすり替えられ、高級着物には毒針が仕込まれていた。

 宝箱には「はずれ」と書かれた紙が入れられ、蔵の壁には「此処まで来た思い出が、君たちの宝物さ。前向きに生きようぜ」という嫌がらせが落書きされていた。

 調略した今川関係者からは、この仕込みの情報は全く入っていない。


(一夜で、仕込んだってか?)


 手練れの忍者部隊の仕業で間違いない。


(服部半蔵だ〜〜!! 間違いなく〜〜〜〜)


 内心のブチ切れを抑えつつ、馬場は部下に命令を下す。


「宝物を全部、元に戻せ」


 固まる部下に、厳命する。


「もういい。焼き払いを始める」


 武田信玄の命令と真逆の命令に、部下達の硬直は激しい動揺に見舞われる。

 動揺を鎮める為に、馬場信春は言葉を掛ける。


「どの宝物に罠が仕込まれているか、分からぬ。見極めている間に、時を稼がれてしまう。わしは時を優先させる。此処にあるは、焼き棄てる」


 理由を説明しても、武田信玄の命令に逆らう恐ろしさで身動き取れない部下達の為に、馬場信春は責任の所在を明らかにする。


「責任は、わしの一命で支払う。焼き払いを始めよ」


 馬場信春が言い終えるより速く、四人の門番の後を追っていた部下達が戻って来る。


「全員、掛川城へ向かう道筋で合流しました」


 という情報がまとまり、馬場信春は思案する。


(どうしよう。追いかけたら、絶対に伏兵いるよな。罠張られているよな。う〜ん。シンキング、シンキング。この状況で立てられる手柄は、春名様と美朝姫の確保のみ。強行しよう。うん、そうしよう。部下の半分近くは戦死するだろうけど、そうしよう)


 肚を決めると、全身赤尽くめの鎧に身を固めた味方が、返り血を滴らせながら今川館に到着し始める。

 武田軍団で最強の部隊『赤備えアカゾナエ』の合流に、馬場信春の脳裏に策が浮かぶ。

 話を付けようとする馬場にとって都合よく、赤備えの指揮官の方から寄って来る。

 馬を影のように巧みに操り、その兎顔の痩せた小男は騎乗のまま馬場に話し掛ける。

 戦国最強と呼ばれる武田軍団の中でも至強の強さを誇る赤備えの指揮官は、身長の低さを気にして馬上を好む。


「なんだ、ジジイ?! 先陣を譲ってやったのに、焼き討ちだけかよ。引退するか?」

「やかましいわ、先陣独占屋…焼き討ち?」


 馬場の部下は、まだ駿河の城下町を焼き払う準備を始めたばかりだ。


「西からか?」

「ああ、西からだ」


 赤備えの指揮官・山県やまがた昌景まさかげは、それだけで事情を汲み取る。

 武田四天王最強の男は、戦況を読み込む速さも格段に優れている。


「西へ。掛川城まで、今川の母子を追い掛ける。お二人が迂回したり、こちらから身を隠しても、掛川城まで進む。来るか、三郎兵衛尉ひょうえのじょう(山県昌景のニックネーム)」

「いいね。此処は灰しか残らなそうだし。朝比奈泰朝の首なら、赤備えの手柄に相応しい」


 山県昌景は、早速部下に掛川城まで補給線を伸ばす作業に取り掛からせる。


 山県昌景と朝比奈泰朝の外見を比べたなら、人は朝比奈泰朝に軍配を上げるだろう。

 だが、武田の者ならば、必ず山県昌景を推す。


 武田軍の兵達は、彼より強い男を見た事などない。

 



 桜色の忍者装束に鷹の意匠を付けた女性を先頭にした集団が、駿府の城下町から西へ伸びる街道を足早に過ぎて行く。

 燃える城下町の煙を背後に振り返り、月乃は感慨を零す。


「半蔵様と歩いた街並みが…」


 三河が今川の支配下にあった頃、バカップルの態で駿府の城下町を探索デートした想い出が美しく美化されてリフレインしてしまうのだ。

 急いで立ち去ればいいのに。


 服部半蔵の妻のボヤキに、徒歩で避難中の春名様がツッコミを入れる。


「それにしては、手際良く焼き払ったのう」


 化粧を最小限に控え、服飾を服部隊の女忍者たちと同レベルに揃えているので、春名様の素性は他の避難民にも推測し難い。

 たとえ見当がついても、この状況では急いで距離を置く。


「どのみち、武田が燃やしてしまう街並みです。西への通行を塞ぐ形で焼き払えば、時間を稼げます。うまく行けば、焼き殺せますし」

「良き所業じゃ」


 誰よりも感慨に耽っていいはずの春名様は、月乃の発言を適当に流して娘の動向に気を配る。


 此方も衣装レベルを落として姫には見えない様に偽装した美朝姫は、葵色の小袖に鮫の意匠を付けた長身の女忍者に肩車で運ばれている。


「夏美の子供は幸せじゃのう。肩車で半刻一時間歩いても、速度が鈍らぬ母を持つとは」

「…姫様。刀を誰かに預けて下さると、夏美は楽が出来て嬉しいです」

「んん〜」


 美朝姫は周囲を見渡し、片手が空いていそうな鉄砲持ちの女忍者に刀を差し出す。

 赤と黒の小袖に十字架の刺繍を縫い付けている女は、刀を受け取った代わりに鉄砲を美朝姫に渡す。

 夏美の負担が、却って増してしまった。


「神の御技は、計り知れない。陽花ひばなの負担を減らす為に、斯様に遠回しな手段を」


 月乃は、はしゃぐ美朝姫から火縄銃を取り上げると、陽花の脳天を叩いてから火縄銃を返して刀を受け取る。


「味方の足を重くするボケは禁止!」

「味方の頭をカチ割りそうなツッコミは、いいのか?」


 この調子で歩いているので、他の避難民は避けて通る。

 やがて街道は土手に遮られ、緑の豊かな川に達する。

 他の避難民は土手沿いに南北に分かれるが、服部隊は今川母娘を伴って真っ直ぐに安倍川緑地へと進む。


 安倍川緑地。

 駿府の西側に流れる安倍川あべかわの周囲には、ハイキングに適した緑豊かな低地が広がっている。

 支流が広域に、あみだくじの様に分かれているので、此処を舟で下れば追っ手を撒くのに都合が良い。

 歩き慣れない今川母娘でも、確実に半刻で歩いて来られる避難経路を、今川氏真というか朝比奈泰朝は用意していた。

 側近が逃げるか裏切って全員去ったので、内偵をしていた服部隊を臨時雇用して一緒に逃げているとは、流石の朝比奈泰朝も考えていなかったが。

 服部隊にとっても良い話なので、この避難経路に便していた。


 土手を降り、服部隊の舟を隠してある川辺まで三百m程度の距離で、月乃は聞き慣れた足音が全速力で接近して来る音を拾う。

 白い小袖に虎の刺繍を付けた女忍者が、土手を飛び越して月乃に合流、しても止まらずに、追い越して身振り手振りで走るように促す。

 

「走りましょう」


 月乃は全員に促すが、春名様の走りは、早歩きよりもちょっとだけ速い程度だった。二十六年間、走る筋肉を一切使わずに生きてきた、春名様である。

 白い女忍者は、焦ったそうに袴を脱ぎ捨てて、縞模様の褌姿を晒す。

 身軽になると、春名様を引き摺るように手を引いて走り始める。


「火、火の壁で、武田を食い止めたのでは?」


 春名様の問い掛けに、白虎の女忍者・更紗は、辛辣に返す。


「薪にしても役に立たなかったよ、今川は」



 馬場信春の部隊と赤備えは、完全に炎上している城下町の西側を突き進んでいる。

 建築物は満遍なく燃えているが、街道は広めに造られているので火の粉に我慢すれば進めた。

 途中、わざと倒壊させた建築物を燃やして通行止にしている箇所に当たっても、攻城用の破壊槌で強引に排除。作業に当たった兵達は重い火傷を負ったので、後方に下がらせる。

 三度、焼き通行止を排除すると、馬場隊&赤備えは炎上する城下町から抜けた。

 この段階で、馬場隊の動向を見張っていた更紗は、警告に走った。

 彼らの駆け足なら、十五分で安倍川緑地に着く。



 馬場信春は、馬を山県昌景に寄せて念を押す。


「安倍川緑地は、敵が伏兵を隠して置くには最高の場所だ。横槍は絶対に喰らうと思え」


 馬場信春は、楽観論とは無縁の智将だ。


「いいね。最近、不利な状況で戦った経験が無い若手が増えているから、丁度良い」 


 山県昌景は、悲観論とは無縁の強将だ。

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