4-9

 バイパスを大回りして、再び灰色の煙が立ちこめる火災現場の方向へと機首を巡らせた。

 正面の計器盤、そして機体の外側をざっと眺め回し、見る限りでは異状がないことを確認する。


「───行っくぞおっ!!」


 そして、ステラはもう一度濃厚な煙の中へ突入した。

 いきなり、強烈に過ぎる突き上げが下方からステラを襲う。


「んぐっ!!」


 さっきとは段違いの衝撃だった。

 まるで巨大な壁にブチ当たったかのように、ステラの行き足が止まる。側方窓に思い切り頭を打ち付け、その痛みに一瞬呆然とする中で、為す術無くステラの機首が真上を向いた。

 全身を不気味な無重力感が包み込む。


 ───失速した!


 その瞬間、夏海の手足が自動的に動いた。


 操縦桿を思い切り前に倒して、機首を無理やり下に向ける。ラダーペダルをばたばたと踏み込み、ロール気味の機体を左右で水平に立て直す。スロットルを開き、失った速度を回復させる。


 飛行士となることを志し、訓練機で空を飛び始めてから何度も何度も飽きるまで繰り返した、失速回復操作。

 もはや身体に染みついた一連の動作を、夏海は無意識のうちにやり遂げた。


 だが、揚力はすぐには戻ってこない。翼から引き剥がされた風を再び奪い返すには、速度が全く足りない。位置エネルギーに頼るには、ステラの高度は余りに低くありすぎた。

 放り投げた石が落ちていくように、ステラは急激に高度を失う。


「────!!」


 その刹那、夏海の脳裏にたらいのような甲府盆地の姿が浮かび上がる。

 周囲を高い山に囲まれた盆地の底、火災現場はその中心近く。その上空は強い上昇気流が吹き上がっている。


 ───だとするなら!!


 煙を突き抜けて周囲が見えるようになった瞬間、夏海は真正面に黒瓦の家並みと、その只中で瞬く赤い回転灯の光を見る。

 心臓が跳ね飛ぶ程、それは目と鼻の先にあった。


『うっ、わああああっ! 墜ち───』

「───て、たまるかあっ!!」


 スロットルに残された最後の指二本分の隙間を、一気に全開まで開く。

 超低空から地面に向けてスピードを増したステラの中で、夏海は小石一つ一つが見えるほど近付いた地面を凝視し続ける。


 すべてがスローモーションで進んでいるような光景の中、住宅を囲む生け垣の葉がさわさわと揺れているのが見えた。

 その葉の一枚が枝から引きちぎられ、風に乗って蝶のように舞い飛んでいる。


 方向は────────北。


 ───見つけた!!


 夏海は両足をあげて計器盤を踏み込むと、全身全霊を使って操縦桿を引きつけた。


「上がれええええええェェェェェェェ────────────────────っ!!」


 ぐうっ、と足元から浮き上がる感覚。

 その直後、まるで見えないクッションに捉えられたかのように、ふわりと機体が浮き上がった。


 機体の下から軽い衝撃が走る。主翼の根元から垂れ下がった主脚が屋根に触れたのだ。

 タイヤが瓦の上を走るガタガタという振動がステラを細かく揺さぶる。

 屋根の端から端まで瞬く間に走り抜け、フッ、と唐突に振動が収まった。再び揚力を取り戻した翼が、まるで撥ね石のように機体を空へと浮かび上がらせる。


 辛くも危地を脱したステラの機内で、夏海は全身からどっと冷や汗を流していた。


「………………た…………………!!」


 大きく。

 胸の奥底から大きく、安堵の溜息をついた。


「助かったぁ……………!!」

『な、夏海さん、大丈夫ッスか!?』


 無線の向こうから呼んでいる。

 夏海は肩で息をしながら、それに応えた。


「だ、大丈夫……だいじょぶ、です……!!」

『スゲえッスよ! オレ、もうダメだと思いましたもん。今のってどうやったんスか、墜落直前にふわって浮き上がったように見えたんスけど?』

「……火災気流…………」

『はい?』


 ようやく呼吸が落ち着いた。

 先程、確かに自分が見た光景を思い出しながら、夏海は訥々と語る。


「火災気流、です……。盆地の真ん中で大きな火事があって、その上空に強い上昇気流が吹き上がっているなら、逆に低いところを火事の方向に向かって吹き込んでいる風が必ずあるはずですよね」


 風読みの力。

 あの南アルプスの稜線上で自分の弱点を突きつけられていなければ。

 あれから意識的に風を読もうと努めていなければ。


 はたして自分は、このことに気付くことができただろうか?


「今の時期、甲府盆地には富士山の方角からも弱い南風が吹き込んできてるから、それが火災気流と合わさることで少しは強い風力になってるだろう、と踏んだんです。それに外から吹き込んでくる風なら温度も低いから、空気密度も高いはず。このステラの羽根なら、そんなわずかな空気の層でも絶対につかまえられるはずだ───って」

『……スゲェ…………!』


 電波の向こうで、絶句するように言葉が途切れる。


『マジでスゲえッス。夏海さん、とんでもない操縦の腕もってるんスね……!!』

「いやあ……アハハ、ハ……」


 乾いた笑いしか出てこない。

 ヤバイなんてものではなかった。まだ心臓はドクドクと波打ったままだ。

 幸運に幸運を掛け合わせて、何とか最後の糸をたぐり寄せた気がする。


「とりあえず、その先の交差点を左に曲がって、ついてきて下さい」

『了解ッス! おいあっちだ、次は見失うなよ!!』


 消防車の車列が再び動き出した。

 集落の中の狭い交差点を西へと曲がっていくのが、農家の陰に見え隠れしている。


 緩やかに西へと旋回しながら、夏美は思う。

 自分は今、本当に危ない場面をくぐり抜けたのだ。自分だけじゃない、あの消防士の人たちや、周りの家の人にまで命の危険を味わせてしまったのだ。


 ───もう二度と、ごめんだ。


「地上班へ。そこから二つ目の角を左へ。続いて一つ目の交差点を右へ。後は真っ直ぐです」


 今更ながら手汗がひどい。操縦桿を交互に持ち替えながら、パイロットスーツのお腹で拭き取ろうとする。

 強く握りしめていたためか、どちらの掌も痺れきってまともな感覚がなかった。


『正面に前周りを壊したランクルが見えます。これっスか?』

「はい。その先にタンクローリーが転がってます。たくさん人がいますので、注意して走っていって下さい」

『了解ッス!』


 元気の良い返答だった。


 眼下の事故現場に地上班が到着する。三台の消防車から隊員が飛び出し、タンクローリーへと駆けていく。

 その光景を靄の向こうに見送ってから、夏海はフラップを格納して翼を巡らせた。


 満足感はそれなりに、ある。

 しかし墜落寸前の危機に陥ったことが、夏海の心に重くのしかかっていた。


『お疲れさんでした、これなら何とか持ってきたぶんの吸着剤で間に合いそうッス。ありがとうございました!』


 お礼を言われてしまった。危ない目に遭わせてしまったというのに。


 ───何か言わなきゃ。


 夏海はのろのろとした動作で、再び無線のトークボタンを押し込んだ。


「こちらこそ、さっきはびっくりさせちゃってすいませんでした……」

『いやいやいや、本当に助かったッスよ! 後で正式にお礼が行くと思うッスけど、ひとまずありがとうって言わせて下さい。それと、美春さんによろしく、と!』

「判りました、あー……」


 この人、何て名前だっけか? せっかく覚えかけてたのに、さっきのドタバタですっかり記憶から飛んでしまった。


 無線の向こうで息を詰めているのが判る。

 夏海は必死に思い出そうとして、記憶の底からぽろりと出てきた言葉をそのまま口にした。


「……AV女優が好きな人」

「………………もう、それでいいッスよ……………………」

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