4-2


 ───その時。


 天羽夏海あもうなつみは勝沼にあるブドウ園の農薬散布の仕事を終え、玉幡に向けて飛行している最中だった。


 勝沼は笹子峠の山裾、ゆるやかな傾斜地にある町である。

 上空から見ると、緑色のふかふかした絨毯が一面を覆っていて、その中にぽつぽつと家が建っているように見える。ここは全国でも指折りのブドウの産地で、絨毯のように見えるのは葉を茂らせたブドウ園だ。


 送信ボタンを押し込み、玉幡飛行場でサポートしている秋穂へと報告する。


「農薬散布、終了。方位二五〇度で定針しました。これから玉幡に戻るからねー」

『了解、夏ねえ。着陸には滑走路ランウェイ三五を使うと思うから、飛行場には南側からアプローチして。ウェイポイント〝NOPUIノップイ〟の手前で玉幡管制とコンタクト、その後はそっちに引き継ぐから』

「了解! ───やーれやれ、今日のお仕事終了っと」


 送信ボタンから指を離した夏海は、操縦桿を握りっぱなしの右肩を左手で揉みながら細く息を吐いた。

 今日はこのブドウ園への農薬散布も含めて、三回も甲府盆地の空を飛んでいた。それぞれ三〇分ほどの飛行だったけれど、ずいぶんと消耗した気がする。


 それにしても、いつになったら自分は甲府盆地の外を飛ぶことができるんだろう。

 先日の南アルプス稜線上での郵便物空中回収を経てもなお、夏海はずっと甲府盆地の内側で農薬散布の仕事を続けている。


 山肌に沿って吹き上がる風の壁を突き抜け、稜線上の細いワイヤーを尾部のフックで捕らえて吊り上げるという難しい仕事をやり遂げて、夏海はそれなりに満足していた。

 しかし毎日の生活に期待したような変化はなく、姉が持ってくる仕事はあいも変わらず農薬散布の仕事ばかり。


 自身が抱えていた弱点───地形や気象情報から、風向きやその強さを事前に予測することができないことについては、あの仕事の後で姉や祖父から聞かされたし、自分でもおぼろげながら理解してもいた。

 あれから意識して風向きを読むようにつとめた結果、農薬散布の仕事の成功率もわずかながら上がっている、気がする。


 だが、いつもいつも甲府盆地の空を飛んでいるだけに、それは単にここの空に慣れただけってことはないだろうか。


 できれば他の場所も飛んでみて、本当に風読みの力が上達しているのか確かめてみたいんだけどなあ……。


 そんなことを悶々と考えながら、しかし先日祖父に怒られた手前べつの仕事をくれとは言い出せず、夏海はただ無心になって流れ作業のように農薬散布の仕事を続けてきたのである。


 溜息をつきながら首を回して、ふたたび視線を前に向けた、その時。


「……………ん?」


 前方に煙が見える。

 この時期、精米を終えた後に残った籾殻や果樹の剪定後の枝などを、落ち葉と一緒に農地の一角で焼いていることがよくある。

 厳密にいうと野焼きは法律で禁止されているが、徐々に暖かさを増してくる空気にまじる野焼きの焦げ臭い匂いは春の農村の風物詩といえるだろう。


 奇妙に思ったのは、その煙が僅かに黒く濁っていることだった。水分を多く含んだ野焼きの煙は白い。


「────あっ!」


 見つけた。

 国道二〇号線笛吹バイパスで、何十台もの車が多重衝突を起こしていた。

 押し出された車が反対車線も巻き込んだのか、上下線共に多くの車が無秩序にひしめいている。


 そのうちの何台かが火災を起こしていて、いくつかの黒煙が上空に立ち上っていた。どうやら他の車にも延焼して、少しずつ燃え広がっているようだ。

 今また、一台の車が軽く爆発した。煙が濛々と辺りに立ちこめ、ステラの機内にまで金属臭に似た目にくる臭いが漂ってくる。


「な、なんか大変なことになってるっぽい……?」


 幸い、ほとんどのドライバーは車内から脱出することができたようだ。歩道沿いに多くの人々がいて、火災を起こしている車を遠巻きに眺めている。

 

 すでに消防車も到着して消火活動が始まっていた。

 しかし、見るからに数が少ない。現場の近くにいるのはたった一台のポンプ車で、そこから延ばされた二条のホースから細く水がかけられている。

 どうやら近くの消防団が押っ取り刀で駆けつけたものらしい。


「ていうか、他の消防車は? もっと来てないのかな……?」


 夏海は空の上から周辺を探った。


 ……いた。

 国道二〇号線の上下方向から、生まれてこのかた見たことが無いような台数の消防車が赤色灯を回して現場に向かおうとしている。


 しかし、国道上は双方向共に大渋滞を起こしていて、消防車の集団はなかなか現場には近付けそうにない。

 国道が止まっている煽りを受けて、平行する県道にも無数の車が流れ込んでいる。消防隊が現場に到着するのはまだまだ時間がかかりそうだった。


 さらに運悪く、現場の辺りは多くの家や商業施設が密集している場所だった。もしも火が燃え移ったら、一体どれほどの被害が出るんだろう。


「……これ、どうしよ………?」


 自分にも出来ることが、何か無いだろうか。

 頑張って考えながら、夏海は少しずつ視界が悪くなりつつあるバイパス道の上空を飛び続ける。

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