第4章 焦煙の向こう側

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 ───例えば、これから起こることは世の中で割とありふれた出来事だ。

 程度の大小こそあれ、今この瞬間も世界のどこかで起こっていることである。


 強いて相違点を挙げるとするならば、偶然に偶然を掛け合わせた結果として、その規模があまりに大きく、危険なものになってしまったこと。

 そして、たまたま上空を一機の軽飛行機が飛んでおり、その活躍によって破滅的な事態をかろうじて回避できたこと、だろうか。


 目に鮮やかな緋色をしたその機体は、飛行機というものが見慣れた風景の一部であるこの地においてもなお小さく、貧相な見た目をしていた。操縦していた者はまだまだ経験が浅く、ただ飛ぶことだけでも心は一杯いっぱいで、しかしこの翼が指し示す先にこそ自らの夢を叶える針路があると信じていた。


 その緋色の機体が為したわずかな活躍は、後にいかなる公的記録にも記されることは無く、ただ目撃した人々の記憶の中に残るのみ。

 いつしか彼女の活躍は少しばかりの尾鰭を加え、ちょっとした噂話の一つとして、人々の口に膾炙されていくことになるのだろう。


 それは、このような事態から始まった。



           *



 日曜日、時刻は午後三時を少し回った頃。

 片側二車線のバイパス道路、その西行き方向は今ぎっしりと車列で埋まっている。左側の一車線をふさいで水道管の付け替え工事を行っているために、普段なら流れが良いはずの場所で大渋滞となっているのだ。



 渋滞の先頭付近、初心者マークをつけたドデカいワンボックス車のドライバーは、今年で三十五歳になる主婦だった。


 結婚して十年になる。一人息子が小学校に入学して昼間にわずかな自由時間ができたので、教習所に通って普通自動車運転免許証をつい四日前に取得したばかり。

 派手好きの夫の趣味が反映されたエアロパーツ完全武装のワンボックス車は、車格も見栄えも彼女には少々持てあまし気味で、こんなパチンコ屋みたいな車さっさと売り払って取り回しがよく地味めの軽ワゴンに乗り換えたい、と考えている。


 しかし彼女がまったく好きになれない車を運転してまで、いつも使っている所とは違う遠方のスーパーマーケットに行こうと決めたのは、開店五周年を記念してトイレットペーパー十二個入りを先着順で無料配布する、というチラシが今朝の新聞に挟まれていたためだった。


 そして、いま彼女は非常に焦っている。

 このままだと着いた頃には無料配布が終わっているかも知れない。


 ああ、早く渋滞から抜けないかな。工事してるとこを過ぎたら、次の交差点までに左の車線に移らなきゃ。



 彼女のすぐ後ろ、印刷会社のロゴがドアに書かれたワゴン車に乗っているのは、二十三歳の若いサラリーマンだった。


 日曜にもかかわらず彼が働いているのは、ここのところ営業成績が悪い彼が自主的に休日出勤を買って出たからだ。

 昨年冬のボーナスは会社の業績悪化のあおりを受けて雀の涙程度しか無く、ここで営業成績ワーストワンなぞ取ってしまうと夏のボーナスが支給無し、なんてことも考えられる。


 だが、せっかくの休日出勤もこの渋滞ですべてご破算だ。

 アポイントの時間はとうの昔に過ぎ去り、今は芋虫のようなスピードでしか動かない渋滞の中で忘我の境地に至っている。


 それにしても、さっきから前方を走るワンボックス車は何なんだよ。何でもないところでブレーキを踏んだり、クソ遅いのに右側車線をずっと走ったり。初心者わかばマーク付けてんなら左を走れ左を。

 よく見たらあのエアロ、俺がいつか手に入れたいと思ってるメーカーのやつじゃんか。こっちはカスみたいなボーナスでさらに夢から遠のいたってのに、あんな運転ド下手糞な奴がこれみよがしに取り付けてんじゃねえよ。あー、クソむかつく。

 決めた。この渋滞を抜けたら、さっさと左車線に移ってあの野郎を左からブチ抜いてやる。

 少しは憂さも晴らせるし、どうせテメェはトロトロと右車線を走るんだろ?



 そして、工事区間を抜けた二台は相次いで加速を開始した。


 ボトルネックになっていた工事区間から先は、これまでの渋滞が嘘のようにスムーズな流れになっている。片や失った時間を取り戻すため、片や前方の車を追い越すために、二人はどちらも床までアクセルペダルを踏み込んだ。


 後続のワゴン車が、いささか乱暴なハンドル捌きで左へと車線を変更する。

 そのまま先行するワンボックス車を追い抜こうとするが、しかし荷台に試供品やら印刷見本やら営業用のツールを山ほども積み込んだワゴン車の加速は鈍い。

 ようやくワゴン車の前部バンパーが、ワンボックス車の後部と隣り合う位置にまで来た時には、次の交差点がもう目の前に迫っていた。


 初心者ドライバーな上にワンボックス車の運転にまだ慣れていない主婦は、左斜め後方の死角に一台いることに気付かなかった。

 加速の鈍さで更に苛立ちを募らせたサラリーマンは、ハンドルをきつく握りしめたまま黄色に変わった前方の信号だけを見ていた。


 次の瞬間、急に左車線へと進路を変更したワンボックス車の左側面に、猛スピードでこれを追い抜こうとしていたワゴン車が轟音と共に突っ込んだ。


 タイヤを滑らせながらスピンするワンボックス車の横を、前部を大破させたワゴン車が追い抜いていく。

 自ら振り撒いたエンジンオイルにリアタイヤが乗り、こちらもスピンしながらワゴン車は道路側面のガードレールに激突した。

 事故はそれのみに留まらない。長く続いた渋滞区間からようやく抜け出し、誰もが気を許してアクセルを踏み込んだ、まさにそのタイミングだったのだ。


 まるで吸い込まれるように、後続が次々と衝突していく。

 かろうじて事故現場の直前で停止することができた車もいたが、その後ろから大型トラックが勢いを殺せぬまま突っ込み、事故で停止した車列を次々と跳ね飛ばしていった。


 漏れだしたガソリンに火がついたのは、おそらくはこの瞬間だったのだろう。

 ボン、ボンと小さな爆発をくり返しながら、スクラップと化した車が次々と火に包まれていく。広いバイパスの上を生き物のように炎が走り、やがて天を衝くような猛火となった。


 黒煙が辺りを押し包む。

 一気に視界が悪くなったバイパス上、煙を通してちらちら揺らめく炎の姿を、何とか車から脱出することができたドライバーたちが為す術無く見守り続けている。

 誰かがあわてて押したのか、近くのビルから非常ベルの音が小さく鳴り響いていた。




 ───その時。


 天羽美春あもうみはるはステラエアサービス社の事務所で、他の業者から請け負った経理仕事の仕上げをしているところだった。


 一時は美春の背丈ほども積み上げられていた事務処理待ちの書類も、ここ一ヶ月間毎日の奮闘でようやく底が見える場所までたどり着いていた。


 ───これならあと二、三日で全部片付けることができるかな?

 少しばかりの達成感を味わいながら、手にしていた書類を処理済みの箱へ入れようとした。


「────?」


 ふと、その手が止まる。

 遠くから妙な音が聞こえた気がしたのだ。


 例えて言うなら、ドラム缶を抱え上げて思い切り壁に投げつけたかのような。

 ただのアルミ缶を潰すのとは訳が違う、もっとずっと重量感を感じる音。


 美春は椅子から立ち上がると、事務所の窓へと歩み寄って外の様子を伺う。


「……お爺ちゃん?」


 さっきまで格納庫で整備をしていたはずの祖父・冬次郎とうじろうが、駐機場とは逆の方角を向き、腕を組んで空の一点を見つめている。

 背後では同じく整備ツナギに身を包んだ弟子の名取陸生なとりりくおが、こちらはポカンとした表情で、やはり遠くの空を見ていた。


 美春は、その視線の先を目で追った。


「……なに、あの煙……?」


 彼方の空に、一条の黒々とした煙が上がっている。

 それは不気味に成長しながら、徐々に勢いを増して空を覆い始めていた。



 ……………───────────────────────────────────……………。


 突如として、場内に殷々いんいんとサイレンが鳴り響いた。

 最初は低く、やがて大きく、釜無川の堤防で反射したサイレンの音が、飛行場全体へ不気味に響き渡る。冬次郎が、美春が、陸生ですら表情を変えて、後を引く残響に耳を澄ませている。


 ブツッ、とマイクが繋がった。

 サイレンの響きを追いかけるように、末妹・秋穂あきほの切迫した声がスピーカーから滑り出す。


『緊急出動要請! 緊急出動要請! 甲斐救難航空団かいきゅうなんこうくうだんは直ちに第三種出動準備、繰り返します、甲斐救難航空団は直ちに第三種出動準備!!』


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