3-9

「なっちゃんはね……たぶん玉幡でも一番の、パイロットとしての素質を持ってる」


 先程よりも速度を増して稜線に近付くステラを見ながら、美春が言った。

 その顔を、秋穂は信じられないというように見返す。


「どこが!? 地形や天候から風向きも読めないなんて、パイロット失格じゃない」

「いいえ。それは風を読む力を今まで必要としなかったから。どうしてあの子が乗った後は、ステラの操縦索が普通じゃないくらいに伸びきってたと思う?」


 突然の問いに、秋穂は咄嗟に答えられない。

 美春は口元に微笑を浮かべながら、末妹の肩にそっと手を置いた。


「それはね。なっちゃんが無意識の内に、からなの。普通のパイロットじゃ感じ取れないような些細な兆候を捉え、自動的に操作して手の内に収めてしまう。だから誰もあの子の弱点に気付くことがなかった。なっちゃん自身ですら」


 ステラの後方から、砂煙が渦を巻きながら近付いてくる。

 それは斜面を駆け上がる突風が、砂と雪をまとって目に見える姿となったものだった。自然の気まぐれか地形の具合か、北から流れ込んだ風が谷底で圧縮され、空気の砲弾と化して斜面を走っているのだ。


 まるで突風と競争でもしているかのように。

 ステラは、遙かな高みへと上昇姿勢を取る。


「空を飛ぶ鳥が意識せず翼を動かして気流に乗っているように、翼の先まで神経を通わせたあの子は自分の身体のように機体を操って、少しくらいの悪い風なら自分でも知らないうちにたちどころに収めてしまう。そんな事が出来るなら、そりゃあ地形から風を読む力なんて必要としないわよね」

「で、でも、それじゃいつまで経っても、夏ねえは風読みの力が身につかないって事じゃ……」


 秋穂の言葉に、美春はゆっくりと頷いた。


「ええ。今日のこのお仕事は、そんなあの子に風を読むことの重要さを身体で知ってもらうためのもの。稜線上の目標へ正確に針路を取るには、直前の強風帯を味方に付けなければ絶対に成功しない。上手くできるかは賭けだったけど……どうやら少しだけ、コツを掴んでくれたみたいね」


 美春はフッと息をついた。斜面に沿って駆け上がっていく赤い機体を見ながら、美春の心の中は満足感で満たされていた。


 ───あの子は、空に愛されている。


 人間が地面の上を歩いていくかのように、大空を鳥になって羽ばたけるあの子の天性の能力は、他の誰も身につけることが出来ない力。

 それは私も、そしてあの父さんにすら無かった、あの子だけの貴重な才能。これから大空で生きていくあの子に与えられた、最高の贈り物。

 そこに、地形や天候から正確に風を読む力が加わってくれたら。


「……きっとあの子は、いつか父さんを超える世界最高のパイロットになれる」




「ここだっ!!」


 ───その瞬間。

 夏海は操縦桿をぐっと押さえつけた。


 後方から追いついてきた突風が、ステラの尾部を押し出すように跳ね上げる。

 しかし、機首が下を向くことはない。機体の全面で下からの突風を受け、ステラは水平の姿勢を保ったまま、エレベーターのように上へ上へと高度を取りはじめた。


「ちょっとくらいの風があっても───」


 このまま上昇を続けるだけでは、ステラは風に乗ったまま上空へと空高く舞い上がり、稜線上の目標を大きく外してしまうに違いない。

 しかし、ステラのエンジンは巡航速度を出せるだけの出力で回転を続けている。


 その結果、ステラは強風帯の中で水平姿勢を保って高度を上げながら、少しずつ前に向かって進み続けていた。

 真横から見れば、まるで水面を跳ねる小石のような軌道で、赤い機体は斜め上へと進み続ける。


「───スピードに乗せて風向きを計算に入れれば、ハネ返せる!!」


 それは、ステラの前進する力と上へ向かう風の力が絶妙に絡まり合った奇跡だった。

 確信があってやったことではない。下から強い風があるのなら、こういう飛び方ができるはず、という予感だけだ。


 しかし夏海の持つ天性の操縦勘と、芽生え始めた風読みの目、それに類い希な高揚力を発揮する三式連絡機ステラの能力が、この奇跡のような機動を実現させたのである。


「抜けろッ!!」


 腰の下から突き上げてくる力が、徐々に静まっていく。

 強風帯を抜けたのだ。


 それまで岩の急斜面しか見えていなかった前方の風景が不意に開け、陽光を受けて輝く彼方の山並みが視界一杯に広がった。

 稜線の上に突き立った二本の柱が、その間に張られたワイヤーが、夏海の正面で風に揺れている。

 近い。もの凄く、近い。


 目前ではためく目印の布を睨みながら、その時まで夏海の操縦桿を握る腕は、フットペダルに置いた脚は、本人も認識できぬ程の細かさで動き続ける。


 それは一瞬の衝撃だった。


 ガチン、と何かが嵌った音。

 ワンテンポ遅れて、後ろから裾を引っ張られるような力が伝わってくる。


「……や…………」


 胴体後部から下ろされたバー、その先端のカラビナが地上のワイヤーを捕らえ、ウインチが荷物を直接吊り上げた衝撃である。


 後方に長い長いワイヤーの尾を引きながら、ステラは稜線の上を飛び越えた。

 ステラの後下方、およそ三〇メートル程離れた空中で、ワイヤーに繋がった郵便袋が風を受けてくるくると回っている。


 自動的に電源が入ったウインチの巻き上げ音を聞きながら、夏海は叫んだ。

 喜びの余り、いつの間にか無線の送信ボタンを押し込んでいることも、地上に回収完了の連絡をすることも忘れていた。


「やっっったあああああぁぁぁぁぁ────────────────ッ!!」




 トランシーバーのスピーカーから、いきなり大きな雑音が響いた。

 北岳山荘の主人、稲葉勇治いなばゆうじはぎょっとして手元のトランシーバーを見る。


 雑音の合間に途切れ途切れに聞こえてくるのは、パイロットの小娘の歓声だった。余りの大声で叫んでいるために、マイクが捉えきれずに音割れを起こしているのだろう。


「おい。おいこら。聞こえてるか?」


 どうやら知らない内に指が送信ボタンに触れているのだろう。

 途切れた合間に少しでもこちらの声が聞こえればと思ったが、やはり駄目だった。自分の大声でこっちの声が聞こえちゃいねえ。


「チッ……何も言わずに帰っていきやがった」


 小娘のはしゃぐ声なんぞ聞いてても無駄だ。

 稲葉はトランシーバーの電源を切った。任務完了の報告も忘れてるようじゃ、まだまだだな。


 稲葉はトランシーバーを肩に掛け、小屋に向かって縦走路を歩いていく。

 縦走路の周囲にある岩陰から、噴進砲バズーカのようなレンズのカメラを担いだ登山者が何人も立ち上がっている。口々に今回のパイロットの腕の良さを褒め、ベストショットが押さえられた事を喜んでいる。

 この分なら、今夜も山小屋は大いに盛り上がりそうだ。


 そう。あの小娘には、素質がある。


 最初は馬鹿正直に真っ直ぐ突っ込んできて、しかもフラップなんぞ使って誤魔化そうとした挙げ句に、稜線直前の強い上昇気流に煽られて失敗しやがった。


 一時はどうなることかと思ったが、二回目にはあの上昇気流を上手く使って高度を合わせ、最後の瞬間に方向舵を細かく操って軸線をピタリと合わせてきた。

 強風帯を突き抜けワイヤーを捉えるほんの一瞬の間に、あんな芸当が出来る奴はそういない。


 自分の知る限り、あれが出来たのは日本最高の飛行機乗りとして絶頂期にあった天羽芳朗と、その娘───天才少女パイロットとして大空を羽ばたきながら、不幸な事故により操縦桿を握ることが無くなった、その二人だけだ。


「これが、天羽の血って奴か……」


 山小屋のドアノブに手を掛け、稲葉はもう一度東の空を振り仰いだ。


 五月の澄み切った空気の中、陽光に照らされた鳳凰三山はまるで手に取れるように近くに見える。

 その上空を、蜉蝣かげろうのように細く長い尾を伸ばした赤い機体が飛び去ろうとしていた。


 後ろを振り返らず、ただ真っ直ぐに。

 真紅の翼は、はるか大空の彼方へと駆けていく。


「……へっ、これからちっとは楽しめるかもな」


 かつては甲斐賊の一員として日本中の空を飛んだ老人は、自ら去った大空への憧憬を滲ませながら呟く。


 今はもう風の息吹しか聞こえない稜線上に、カロン、と扉の鈴の音が響いた。



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