3-8
「────まいったぁ」
再び高度を取ったステラの機内、上空を旋回しながら稜線を見下ろしていた夏海は、内心の焦りが隠せなかった。
「やっばいなあ、これって意外に難しいぞ……フックをワイヤーに引っ掛けようにも、直前に吹いてる上昇気流で思いっきり姿勢がブレちゃうわけか……」
高度二七六一メートルから二七六二メートル。この高度に正確に機体を乗せ、さらに二本の柱の中心を射貫く針路を正しく取ったとしても、あの斜面を駆け上がってくる強風帯へ入った途端に姿勢が大きく乱れてしまう。
例え姿勢を回復できたとしても、その時にはただでさえ狭い許容針路を大きく逸脱していて、ワイヤーの遙か上方をフックは通過してしまうのだ。
「うーん……」
どうすればいいんだろ。夏海は必死に考える。
問題はやはり、あの風だ。
あの〝風の壁〟さえ無ければ、針路が乱れることなくフックにワイヤーを掴ませることが出来るのに。
ならば、風が止む瞬間を見極めるか。
しかしそのタイミングを、飛行中にどう計ればいいのかが判らない。
それにたとえ風が息継ぎする瞬間を見極めたとしても、どれくらい無風状態が続くのか皆目見当も付かない。あの風の強さからいって、ほんのわずかな時間でも吹かれてしまうと機体の安定が損なわれてしまうのは明らかだった。
そもそも、あの風が止む事なんてあるんだろうか────?
『……おい』
「……あっハイ、すいません!」
ヘッドセットに地上からの声が響き、悶々と考え続けていた夏海は慌てて反応する。
『お前、声からしてまだ若いな。名は?』
「はあ……天羽です。天羽夏海」
『あもう……?』
夏海の言葉に、無線の向こうの声が尻上がりに伸びる。
『天羽……お前、もしかして芳朗の娘か何かか?』
「父さんを知ってるんですか!?」
───まさか。
こんなところで父の名を聞かされるとは思ってもみなかった。
驚く夏海に、無線の向こうの声は淡々と続ける。
『知ってるも何も、お前が今やってるこの空中回収は、芳朗の奴が得意としてた仕事だ。ウチも昔はあいつに毎回頼んでたんだよ』
国内でも指折りの名パイロットだったという、父。
しかし夏海はパイロットとしての父の姿を、ほとんど知らない。
自らの目標としながらも、漠然とした影だけをを追い求めているような、そんな焦燥感を夏海は常に抱き続けてきたのである。
「父さんが……得意にしてた仕事……」
世界中に残されているだろう父の足跡、これがその一つなのか。
───やっと、見つけた。
これまで願っても見ることが出来なかった父の背中を、ようやく捉えることが出来た喜びに、夏海の心は高鳴る。
『赤い三式連絡機に、芳朗の娘か……はん、そういうことか。何でお前みたいな素人をよこすのかと思ったら……』
無線の向こうの老人が、低く笑った。
『……おい、良いことを教えてやる』
「───えっ?」
『この仕事で、芳朗の奴がどんな様子で飛んでたか、だ』
夏海の思考に落とし込むように、一呼吸だけ間が空いた。
『芳朗の奴はな、いつも時間通りにここに飛んで来ちゃ、あっという間に帰ってった。郵便袋を柱にぶら下げておきゃ、こちらが何も言わずとも勝手にフックに引っかけて持って帰ってたよ。俺が爆音に気付いて外に出た時には、もう袋が消えて無くなってるってくらい、そりゃあ見事な早業だったぜ』
「つ、つまりこれを一発でってことですか!?」
夏海は驚く。
自分があれほど振り回されてへこたれそうになっているこの仕事を、父はいつもたった一回で成功させていたというのか。
父はどうやって風の壁を越え、あの狭い針路へ機体を持っていったのだろう。
『もちろん一発で、だ。取りこぼしたことなんぞ一度もなかったぜ。
いいか、よく聞けよ。芳朗の飛行速度は、さっきのお前よりもはるかに速かった。それで波乗りするみてえに勢い付けてフックに引っかけてたよ。同じように他の奴等も飛んでたが、いつも一発でこれを成功させてたのは、俺が知る限りじゃお前の親父だけだ』
「波乗りするみたいに……勢いつけて……」
老人の言葉に、夏海はひたすら考える。
父が自分よりも速い飛行速度でこの仕事をこなしていたというのは、実はそれほど意外ではない。
恐らく操作が忙しくなるのを看過しても、舵の利きが悪くなるのを避けたのだ。一度挑戦して調子を掴んだ今なら、自分もさらに高い速度で針路に乗せることが出来るはずだ。
問題はやはり、目標の直前で谷間から吹き上がってくる強風帯だった。
あれがある限り、例え事前に正確な針路に乗せたとしても、機体は風に吹き流されてしまう。ようやく姿勢を立て直した時には、目標は遙か後方に流れ去っている。
───あの〝風の壁〟を……波乗りするみたいに?
ハッとして眼下の風景を見る。
稜線の東側は白鳳渓谷が深く切れ込み、谷底には早川の細い流れが蛇行しながら南に向かって伸びている。
植生限界を超える頂上付近は岩と残雪が目立つ荒涼とした急斜面だが、中腹から下は青々とした森が麓まで続いていた。
夏海はこの辺りの地形を脳裏にイメージする。
北寄りの風、つまり八ヶ岳の方向から吹いてくる風は北岳に当たって左右に分かれ、一方はこの渓谷に流れ込んできて、その谷筋で圧縮され風力を増す。
そして、もう一度斜面に沿って上空へと吹き上がる。
それがあの強風帯の正体だ。
『風向きと、風の強さと、自分が行きたい方向のバランスを取れば後は簡単だから────』
「……………………そうか!!」
夏海は左手でフラップレバーを全閉に合わせた。今からやることのためには、フラップの生み出す余計な揚力は邪魔になる。
フラップが格納される音が地上まで聞こえたらしい。無線の老人の声が、さも面白そうに歪んでいる。
『へっ……どうやら気付いたみてえだな』
夏海は応えない。
機首を再び東の方角に振りながら、目は必死に地上の風景を凝視して、その化物がやってくる足跡を探し続ける。
───見えた。
間断無く吹き込んでくる北風に、森の木々が一時も休むことなくざわざわと揺れている。その中で、一際大きく揺れている一角があった。
それは上空から見ると森につけられた丸い踏み跡のようで、こちらに向かって猛烈な勢いで近付いてきていた。
それは地形によって圧縮され、突風となった空気の塊だ。
それに狙いを定めて、夏海は西へ、稜線上の目標へと針路を取る。
今度は心持ち高度が低い。高度計を見ることなく、勘だけで高度を決めた。
「怖がって遅い速度で行っちゃダメだ……巡航速度に少し足らないくらい」
近付いてくる風の足跡と歩調を合わせるように、スロットルを微調整する。
突風は森の頂を踏みしだき、やがて森林限界を越えて岩の斜面を駆け上がってきた。
ハクサンイチゲの花弁を散らし、陽炎のようにぼんやりとした砂煙を巻き上げながら、ステラを追うように突風は上へ上へと走り続ける。
背後からひたひたと近付いてくるその気配に、夏海はぐっと操縦桿を握りしめた。
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