3-7

 回転するプロペラの向こうに二本の柱を見ながら、夏海は慎重に機体を稜線へと近付けていく。


「よっ……ととっ……」


 低速故に機体の反応は鈍いが、そのぶん早め早めを心がけて操作すれば問題ない。前方風防の二本の窓枠、その丁度中間に目標を収めるように、夏海は操縦桿とフットペダルをじわじわと操作した。


 やってみると、いつもの薬剤散布の時と同じだ。場所が平坦な甲府盆地の底から標高二七五〇メートルの南アルプスの稜線に代わっただけで、狙った場所に正確に機体を持って行く操作は基本的に何も変わらない。


 問題は、ワイヤーを着艦フックで捕らえるには上下左右の自由がほとんど無いことだったが、これについても夏海は何とかなるんじゃないか、と思っている。

 夏海は滑走路への着陸の際、突発的な風の悪戯がない限りは、狙った場所へ五〇センチと離れず車輪を下ろす自信があった。まだ自家用免許を取るために頑張っていた頃、教官からも褒められた事のある夏海の密かな自慢だ。


 あの時は四式基本練習機ユングマンだったけれど、翼の先まで神経が通っているようなこの三式連絡機ステラなら、より正確に機体を操ることが出来るはずだ。


「これなら、まず失敗することはないでしょ……!」


 順調に近付いてくる稜線上の二本の柱を見ながら、夏海は唇の端だけで微かに笑う。

 天候はどこまでも穏やかで、機体は快調そのもの。ここまでの飛行も順調で、狙った航路へ正確に機体を寄せることが出来た。

 この仕事を成功させる上で障害となるものは何も無い、はずだった。


 だからこそ、反応が一瞬遅れた。


 ───突然。


「ふわっ!?」


 機体を強烈な衝撃が貫き、夏海の上半身が前方に投げ出された。

 今まで前方に見えていた稜線と二本の柱がエンジンカウルの陰に隠れ、前方に真っ青な空が広がる。乗降扉のヒンジの隙間から吹き込んでくる風の音が、まるで大きな笛を耳元で吹いているようにビョウビョウと鳴り響く。


 さっきまで水平飛行していたはずなのに、まるでアッパーカットを食らったように機首が上を向いていた。それどころか、何も操作していないのに機体が勝手に右へと傾斜を深めていく。


「くう……ッ!!」


 胸に食い込んだシートベルトの痛みに顔を顰めながら、夏海は操縦桿を左に倒し、それから前方へ大きく押し込んだ。


 その途端、今度は右の主翼がバネ仕掛けのように跳ね上がり、機首が有り得ない勢いで下を向く。

 一体、何が起こったのか。

 必死に機体を制御しようとするその刹那、夏海の視界の端に渦を巻きながら斜面を駆け上がっていく砂煙が、確かに見えた。


 夏海の脳裏に、出発してすぐの秋穂の言葉が再生される。


『今日は北寄りの風が吹いてるから───』

『特に今回みたいな山肌ギリギリの低空飛行だと、地面近くの突風がそのまま機体に吹き付けてくる───』


「そうか、谷間から吹き上がる風───!!」


 つまり、鳳凰三山と白根三山の間に北から吹き込んできた風が、白鳳渓谷のすぼまりと共に風力を増し、暴風のような勢いで斜面に沿って上空へと吹き上がっているのだ。


 それは、まさしく〝風の壁〟だった。

 春の南アルプスの大自然は、最初こそ穏やかな表情で獲物を招き寄せ、何も気付かぬまま直前まで近付いてきた夏海をその巨大なあぎとで絡め取ったのである。


「こん……のォ……ッ!!」


 もはや水平儀は役に立たない。あまりの姿勢変化の激しさに、ジャイロの回転が追いつかないのだ。

 真下から吹き上がる強風の中で木の葉のように翻弄されるステラを、夏海は全身全霊を使って操り続ける。


「ちょっとは落ち着け、このじゃじゃ馬ァ!!」


 前方に岩だらけの稜線が見える。

 突き立った二本の柱が、その頂点にぴんと張られたワイヤーが、斜めに傾いだ視界の中で風に揺れている。


 近い。あまりにも、近い。

 祈る暇もなかった。


「掛かれえええええぇぇぇぇぇ!!」


 操縦桿を右に思い切り倒しながら、夏海は叫ぶ。

 もはや高度計を見る余裕もなかった。寸前で機体の傾きがほぼ水平に戻ったのは奇跡に近い。

 超低空で稜線の上を航過し、二本の柱が一瞬で後方へと流れ去っていく。


 胴体下から伝わってくるはずの衝撃は、無い。


 ───外した!?


『こンの、下っ手糞オオオオオオォォォォォォ!!』


 ヘッドセットのスピーカーから、キンキンと北岳の親父の怒声が響く。


『そんくらい一発でやれ! 日が暮れっちまうだろうが!!』

「す、すいませ────────────ん!!」


 稜線東側の強風帯を突き抜け、うって変わって穏やかになったステラの機内。

 どこか悲鳴にも似た甲高い声音で、夏海は叫んだ。




「あー、やっぱり失敗したな」


 タワシさんが、さもありなんという風に呟く。


「馬鹿正直に真正面から行っても、稜線の風の壁は越えられんよ。煽られて針路を外すのがオチだ。結局、あの上昇気流の存在に気付けなかったか……」


 そう。夏ねえは最後の最後まで、あの〝壁〟の存在に気付かなかったのだ。


 秋穂は確信した。

 それはパイロットとして、あまりにも致命的に過ぎる弱点。

 彼女が疑いつつも、なお信じていなかった弱点の存在を、これ以上無い程はっきりと秋穂の前に示していた。


「にしても、あそこまでバランスを崩してよく機体を立て直したもんだ。こりゃ美春ちゃんや冬ジイの教育の賜物かな?」

「いえ、あれはあの子の才能なんですよ」


 小さく息をつきながら、美春が応える。

 まるで心配していない風を装いながら、実は内心で無事に飛べるのか気が気じゃなかったのかも知れない。


「───どう、あーちゃんにも判った?」

「どうして!? あれで何で飛行士免許が取れたの!?」


 中腰になって覗き込んでくる長姉に、秋穂は詰め寄った。

 美春は困ったような顔を浮かべながら、


「どうして、って言われてもね……」

「あんなのおかしいよ。ていうか、まともに飛べてること自体がもう奇跡じゃない。どうして、今まで誰もその事に気付かなかったの!!」

「まともに飛べてるから、よ。だから私もお爺ちゃんも、なっちゃん自身ですらその事に気付かなかったの」

「そんな……そんな事って………!!」


 絶句する。

 有り得ない。そんな事、絶対に有るはずがない。


 あれほどパイロットとして巨大に過ぎる欠点が、今の今まで本人を含む誰にも気付かせずに存在し続けたというのか。これまでただ一件の事故も無く、平穏無事に飛び続けてきたのはどれほど幸運が重なり続けた結果だったのだろう。


 今なら理由が判る。どうして自分が、次姉のサポート役を務めることになったのか。

 そもそもサポート役がいなければ、あの人はただ飛ぶことだっておぼつかなかったのだ。


 稜線上を飛び越え、再びゆるやかな上昇姿勢を取ったステラを遠方に見ながら、秋穂は震える声で次姉の弱点を言い当てる。


 それは、パイロットにとって必須の能力だった。



「夏ねえは……


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