3-6

 鳳凰三山の山並みを越えて白鳳渓谷はくほうけいこくに入ると、目前に白峰三山の一つ・間ノ岳あいのだけの荒々しい山容が広がっていた。

 山頂付近に雪の残る稜線を右へとずっと辿って行くと、そこには白峰三山の主峰であり日本第二の高峰、北岳が天に向かって背を伸ばしている。


「お~、でっかい……!」


 目の前に広がる雄大な南アルプスの山並みに、夏海は息を呑んだ。大自然のパノラマの前に、この機体の何と小さい事か。


 間ノ岳をかわして右に旋回しながら、夏海は目を皿のようにして稜線上を探る。


 ───あった。


 北岳と間ノ岳のちょうど中間あたり、岩と残雪と低い灌木だけが広がる稜線上に、目に鮮やかな朱色のものが小さく見える。

 上空から近付いてみると、それはトタン葺の屋根だった。強風対策のためか、屋根の上に一抱え以上もありそうな岩を等間隔に乗せたその建物は、東を向いて稜線に半ば埋まるように建っている。

 今回の依頼主のいる山小屋だった。


 屋根の上にも残雪が乗っているのかと思ったが、よく見るとそれは敷き詰められた布団だった。昨晩の宿泊客が使った布団を天日干ししているのだろう。建物の脇から突き出た小さな煙突から水蒸気がたなびいていて、時間的に昼食の準備をしているところだろうか。


 上空を飛ぶステラの爆音が聞こえたのか、建物から人影が出てくるのが見える。夏海は無線機の周波数を確認してから、送信ボタンを押し込んだ。


「テステス……あー、北岳山荘の方、聞こえますか?」


 そのまましばらく待つ。

 やがてヘッドセットのスピーカーから流れた声は、しわがれた老人の声をしていた。


『おう、聞こえてんよ……』

「今回はご用命ありがとうございます、玉幡飛行業組合から来ましたステラエアサービスです。今日はよろしくお願いします!」


 お客さん向けの、いつもの倍ほども愛想を乗っけた声で挨拶する。

 しかし、返ってきたのはいきなりの怒声だった。


『遅せえんだよボケ! こっちは客のメシの準備があるんだ、時間通りにさっさと飛んでこい!!』


 きいん、と音割れする程のカミナリに、夏海はあわててヘッドセットを耳から離した。

 山小屋の横に立った人影が、こちらの方を向いてぶんぶんと拳を振り上げているのが見える。


「うげー……爺ちゃんより怖そうだ……」


 上空を旋回しながら、夏海は軽く舌を出す。

 ちなみに、到着予定時刻からは五分ほどオーバーしている。その日の天候や風向きによって飛行時間が大きく左右されるこの仕事において、予定時刻とはあくまで目安でしかなく、五分遅れならむしろ成績が良い方だ。


 地上から手厚い支援を受けつつ秒単位で離発着を繰り返す定期航空便エアラインとは違い、パイロットに多くの裁量が与えられている小規模航空業にとって、予定時刻の前後十五分くらいの誤差はじゅうぶんに許容範囲といえた。


「爺ちゃんも時間には厳しいけど、それに輪をかけて厳しいなあ……こりゃ気を引き締めてかないと……」


 送信ボタンを押していないので呟きが聞かれた訳ではないだろうが、幾分か怒気を落とした声が聞こえてくる。


『ステラ……何だって? 聞かん名前だな、おい』

「あ、はい。一ヶ月程前に出来たばっかりの会社なんですよ。今後ともご贔屓にお願いします」


 だが、聞こえてきたのは舌打ちである。


『ヒヨッコをこの仕事に回してきたってか。ナメられたもんだぜ……』


 ───うわあ。

 鼻白んだ夏海は慌てて言葉を重ねた。


「そっ、そのぶん仕事は丁寧確実にやりますんで!」

『当たり前だ。仕事ってのはおざなりにやるモンじゃねえだろ。これくらいでテイネイカクジツとか言われちゃ、世界中で真面目に仕事してお足頂いてる奴等が腹抱えて笑っちまうよ』

「うううう……」


 やりにくい。ほんっとーに、やりにくい!


 この仕事をしていればいつかは嫌な客にも会うだろうと思っていたけれど、これは予想していたよりも遙かに手強い。


 こりゃ余程うまく仕事しないと、失敗したら後で事務所に怒鳴り込まれるかも。

 夏海は両膝で操縦桿を固定すると、両手でパンパン、と頬を叩く。


『フン……まあいい。右下を見ろ。山小屋の少し上方、稜線上に二本の柱が見えるはずだ』

「右下……?」


 右に緩やかな旋回を続けるステラの側方窓から、夏海は眼下の山並みを見下ろした。山小屋から少しずつ視線を移動させ、稜線に沿って走る縦走路を辿っていく。

 それは、すぐに夏海の視界に飛び込んできた。


「な、何あれ……!?」


 それは、まさしく二本の柱であった。

 山小屋から一〇〇メートルほど稜線を北岳の方角に行った先、少しばかり台地状に小高くなった場所。

 ごつごつとした稜線の上でわずかに平坦となったそこに、二〇メートル程の間隔を開けた二本の柱が真っ直ぐ天に向かって立っている。


 高さは一〇メートルくらいか。旗竿ほどの太さで、柔らかい素材で出来ているのか時折ゆらゆらと風に振られている。

 残雪の残る稜線上の風景と合わせて、夏海にはクリームをかけたチョコレートケーキに突き刺さる楊枝のようにも見えた。


 二本の柱の天辺を繋ぐようにワイヤーが張られていて、ちょうど真ん中のあたりに目印のつもりか白い旗が結びつけられていた。風にたなびく旗の真下の地面には、一抱えもありそうな大きな岩がゴロンと置かれている。

 よくよく見てみると、それは大人一人包めそうなほど大きな灰色の巾着袋である。


『二本の柱を繋いでるケーブルが見えるか? そいつはそのまま両方の柱を伝って地面に落ち、郵便物を詰めた荷物袋に繋がってる。つまりデカい輪っかになってる訳だ。ここまで言えば、もう判るな?』


 ───まさか。

 途端に吹き出してきた冷や汗で、夏海はぶるっと震える。


『お前の機体に付けられている着艦フックはそのためのもんだ。柱に当たるか当たらねえかってギリギリの高度で通過して、張られたワイヤーをフックに引っかけ、荷物をそのまま吊り上げる。フックに引っかける時はプロペラでワイヤーを切らないよう、少しだけ機首上げの姿勢で進入しろよ。

 ───こいつが我が北岳山荘名物、飛行機による郵便物無着陸空中回収だ』

「名物にするなこんなの────ッ!」


 思わず夏海は悲鳴をあげた。


 よく見ると、台地の周囲にぽつぽつと人影がある。もしもの時に安全を確保できるようにか、柱から適当な距離を取ってこちらを見上げていた。

 中にはデカいレンズを付けたカメラを三脚に据え、こちらを狙っている者もいる。わざわざこれを見物しにカメラ担いでここまで登ってきたのだろうか。どこまで時間と体力を持てあましている連中なんだろうか。


「地上スレスレに飛んでワイヤーを引っかけて、飛びながら荷物を吊り上げて回収する……ってそんなことできるの!? ドッキリじゃないよねこれ!?」


 もちろん、これまでに何度も成功してきたからこそ仕事として組合に依頼してきたのだ。夏海にもそれは判っていたが、しかし呟かずにはいられなかった。


 いくら柱の高さが一〇メートルあったとしても、飛行機からすればそれはかろうじて地面ではない、という程度の高さでしかない。

 冬次郎の手で機体後部下面に取り付けられた着艦バーの長さは二メートルほどで、その先端に登山家が使うような大ぶりのカラビナがくっついている。

 後部座席に取り付けられたウインチから延びたワイヤーはこのカラビナにくくりつけられていて、カラビナは軽く力を加えるとバーから外れるようになっていた。


 これはどういう使い方をするものか夏海はずっと首を傾げていたのだが、ここにきてようやく合点がいった。

 地上のワイヤーがカラビナにかかるとその衝撃でバーから外れ、荷物がウインチに吊り上げられるという仕組みになっているのだ。


「てゆーか、そういうことはもっと早く教えてよ……」


 教えてもらったところで自分なら「あーそっかー、へぇ変わってるね~」くらいの事しか言えなかっただろうけど、気の持ち様というものだ。

 夏海は上空を旋回しながら、悶々と考え続ける。最大の問題は、高度にほとんど余裕がないことだった。


「えーと、地上から一〇メートルの高さの柱の先端にワイヤーが掛けられてるから、標高と足して二七六〇メートル……ここから上げすぎるとフックに引っかけることができないし、下げすぎるとプロペラでワイヤーを切っちゃう……着艦バーの長さは二メートルあるけど、主脚が下に出っ張ってるぶんを計算に入れると一メートルあるかないか……高度計は胴体にあるから、つまり二七六一メートルから二七六二メートルの高度を正確に真っ直ぐ飛ばないと、ワイヤーをフックに引っかけられないってわけか……」


 まったく、何て仕事を任せられたんだろう。

 頭の中で数字をかき回しながら、夏海はその難しさに暗澹たる気分になる。


 それと同時に、心の中にわくわくするような気持ちが沸き立つのも確かだった。基本的にハードルが高くなれば高くなるほど燃えてくる、実に男らしい性格なのである。


 その刹那、


『こっちも時間が無いんだ。やるのか、やらねえのか!?』

「えっ、や、やります────あっ」

『へへっ、いーい返事だ。失敗しても泣き見るんじゃねえぞ』


 いきなりの問いかけに思わずゴーと言ってしまった。これでもう後戻りできない。


 夏海は一つ大きく深呼吸する。

 とりあえず一度挑戦してみて、それから後のことは考えよう。やる前から尻込みしてるよりずっといい。

 良く言うじゃないか、やってから後悔するより、やらなかったことを後悔する方がずっと辛いって!


『俺がここで見といてやる。とりあえず一発やってみな』

「ハイッ、行きます!」


 夏海は上空を大きく回り込むと、高度を落としながら鳳凰三山の上空へと戻った。

 再び目標の方角へと機首を向け、スロットルを落としながら慎重に操縦桿を操って高度を合わせていく。

 気圧高度計のメーターがじわじわと動き、二七六〇メートルで静止した。


「───フラップダウン!」


 メーターを睨みながら、左手でフラップ操作レバーを引く。機内にガラガラガラ……という展開音が響き、途端にガクンと速度が落ちた。浮かび上がりそうになる機体を細かく修正して押さえ込む。

 目標へ正確に進入するには、できる限り低速で飛んだ方がいい。低速だと揚力が不足するから、フラップを出して揚力を稼ぐ。これまでの薬剤散布でも、夏海がいつも使ってきた手だった。


「よーし、じゃあ行っちゃいますか───ッ!」




「ありゃ無理だな」


 緩やかに旋回する一〇〇式重爆の操縦席。

 側方窓から遙か遠方のステラを見ながら、タワシさんがぽつりと呟いた。


「───えっ」

「あれじゃワイヤーを引っかけられん。途中までは良くても、たぶん直前でバランスを崩すぞ」


 思わず聞き返した秋穂に、タワシさんは訥々と語った。


「美春ちゃんなら判るだろう? 本人は気付いてないみたいだが」

「さあ、どうかしら。もしかしたら上手く立て直して、引っかけることが出来るかも知れませんよ?」

「まぁーたまた。キミが知らないはずがないだろう、あんな進入をしている限り〝壁〟を越えることが出来ないって事くらい。こちらから教えてやらなくていいのかい?」


 美春は小さく頷いた。


「ええ。今日は見守るだけにしようって決めたので」

「そうか。しっかし北岳の爺さんも酷なことするもんだ。ちょいとでも教えてやりゃいいのに、いきなり本番やらせるんだからな。ありゃ夏海ちゃんの腕前を試してやがんだ」


 夏海と地上との交信は、全てこちらでも傍受している。初めて聞かされた仕事の内容に、混乱する夏海の姿が手に取るように判った。


 それにしても、山小屋の主人が夏ねえの操縦の腕前を試して何の意味があるんだろう。失敗するより成功した方が時間の節約にもなるだろうに。


「ご飯の準備で忙しいなら、さっさと仕事を終わらせた方がいいのに……何で夏ねえを試すようなこと……」


 秋穂の呟きが聞こえたらしい。タワシさんが少し驚いたように目を開いて、機首を覗き込んでくる。


「あれっ、もしかして知らなかったのかい? 北岳山荘の爺さんって、元・甲斐賊なんだぜ」

「───えっ!?」

「戦争中は海軍にいた爺さんでさ、冬ジイと一緒に玉幡飛行場を拓いて、東京への食糧輸送をした最初期の頃の甲斐賊の一人さ。君らが生まれるずーっと前に引退して、今じゃ山小屋の主人に収まってるってわけ。だからじゃないかな、きっと夏海ちゃんがまだド新人だと知って、少しばかり試してやりたくなったのさ」

「は、春ねえは知ってたの? 山小屋のお爺さんが昔は甲斐賊してたってこと」

「もちろん。だからこそこの仕事を受けたのよ。あのお爺さんが、新人パイロットを試す癖があることもね」

「はー……」


 呆れた。

 つまり今回の仕事は、最初から次姉の弱点とやらを明らかにするためだけに受けた仕事だったのだ。

 道理で仕事の内容や現場の気象条件をほとんど伝えなかった訳だ。それらが事前に判っていたら、当然対策の上で仕事に臨むだろう。

 結果、夏ねえは自分の弱点に自分で気付くことは無い。


 秋穂は双眼鏡を目に当てて、ふらふらと目標に向かって飛んでいくステラを見る。

 実は秋穂もまた、これがおそらくは失敗するだろうと気付いていた。タワシさんの言う通り、このままだと直前で〝壁〟に捉えられて針路が大幅に狂うことになる。


 そして、同時に次姉の持つ弱点についてもうっすらと掴みかけている。〝壁〟の存在にまったく気付いてなさそうな事を見てもそれが明らかだ。

 しかし、まさかという思いもある。それはパイロットにとって、あまりにも致命的に過ぎる弱点であるからだった。


 ───ホントにそんな弱点あるの? 夏ねえ……。


 ぎりぎりと音を立てるくらい双眼鏡を握り込み、秋穂は固唾を呑んで彼方のステラを見守り続ける。


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