3-5


 秋穂は、ひとつ嘘をついていた。


 次姉は秋穂がまだ玉幡にいると信じているはずだ。

 無線でも特に変わったところは無く、きっとターミナルビルの屋上辺りから見守っていると思っているはずだった。


 秋穂は今、韮崎市の上空およそ四〇〇〇メートルを飛行する一〇〇式重爆撃機ヘレンの機内にいる。


 上下左右前方をプレキシガラスに囲まれた、まるで檻のような機首近く。

 かつては爆撃手席であった同乗席に座り、秋穂の手には大きすぎる軍用双眼鏡を両手で抱えながら、南アルプスに向かって飛ぶステラを見守っていた。


 この企みに乗ったのは昨晩の事だ。


『なっちゃんには内緒で、明日の仕事を上空から見守ろうと思ってるの。あーちゃんも一緒に来る?』


 夕食の皿を片付けるため夏海が台所に立った隙を突いて、こっそりと美春が提案してきた内容に秋穂は一も二も無く頷いた。


 秋穂は、いまだ夏海が持つ弱点とは何なのか正確なところは何も知らない。しかし弱点があるなら早めに克服するべきだと思っていたし、美春によると明日の仕事はそんな夏海にとって弱点克服のための良い薬になるはずだという。

 だったら、夏海のサポート役を命じられた自分がその光景を目撃しない訳にはいかない。サポート役の仕事を嫌々ながら引き受けた秋穂だったが、一度引き受けた以上は完璧にこなしたいと思う責任感が秋穂にはあった。


 それに、今回の仕事はその内容を聞けば聞くほど、夏海にはハードルの高い仕事であるように思える。

 この仕事を完璧にこなせるのは、自分の予想だと玉幡でも十人といないはずだ。この仕事がどんなものなのか祖父と長姉から聞いた秋穂は、そのあまりの難しさに言葉を失った程だった。

 おそらく、気象状況と機体の具合を秤に掛けながら、針の穴を通すような難しい操縦に迫られる事だろう。


 この仕事が夏海のどんな弱点を乗り越えるきっかけとなるのか、秋穂には判らない。しかし、だとするなら次姉がそれを乗り越える瞬間を、妹として、サポート役として見ておきたいと思ったのだ。

 何の事はない、秋穂もまた夏海の事を心から案じていたのである。


「そこにずっといて、寒くないか?」


 背後を振り返ると、一段高くなった操縦席から髭もじゃの大男が足元を覗き込むようにこちらを見ていた。


「おんぼろだから隙間風ひどいだろう? 空調はかかっちゃいるが、身体を冷やさないようにしなよ」


 ツンツン逆立った髭を震わせながら、大男はニカッと笑う。

 この道二十五年というベテラン甲斐賊の一人で、児玉というちゃんとした名前があるものの誰もがその髭から『タワシさん』と渾名で呼んでいる。真っ黒に日焼けした肌に黄色い乱杭歯が目立つ、二目と見られない異形のおじさんである。


「本当にすいません、同乗させて貰っちゃって……」


 操縦席の後ろ、秋穂からは見えない無線手席に座る美春の声が聞こえてくる。

 タワシさんは首を振りながら、


「何もなんも。どっちにせよ今日はオーバーホール明けで、朝から試験飛行せにゃならんかったんだ。そんな時に冬ジイから『孫二人を乗せてやってくれ』って頼まれてよ、こっちは諸手をあげて大歓迎ってなもんよ」


 可愛い女の子二人と一緒に飛べるってんだから、本当ならオジサンの方が金を払わなきゃならんとこさ。そう付け加えてガハハハと豪快に笑う。


 タワシさんはこう見えて、十歳年下の美人の奥さんと六人の子供がいる。聞いたところによると、年の離れた奥さんなのに家では随分と尻に敷かれているらしい。だから下品な事を言ってもそう聞こえないんだろうか、と秋穂は思った。


「にしても、やたら調子いいなこいつ。オーバーホールに出す前は胴体のあちこちからビビリ音がしてたし、エンジンも回転上げる時に引っかかりを感じたもんだが。それが全部、綺麗さっぱり直ってやがる」

「そんなに、ですか?」

「ああ、こいつぁ前とは別モンだ。やっぱ冬ジイに預けて良かったぜ、やっぱレストア機にかけちゃ冬ジイの右に出る奴はいねえな」


 美春の問いかけにタワシさんが感慨深げに言った。

 確かに、機内で最も寒くなるはずの機首部にいる自分ですら快適に座っていられる。さっきタワシさんは隙間風で寒いだろうと聞いてくれたけれど、余程しっかりとフレーム修正した上でシーリングを上手く取ったのか、わずかにも風は感じられなかった。


「お爺ちゃんって、やっぱり凄いんだ……」


 秋穂の呟きに、タワシさんは「今頃気付いたのかい?」と笑う。


「航空整備士ともなりゃ大抵の飛行機を扱えるモンだが、それでも機体の完全オーバーホールまで手掛けられる奴ってのは数が少ねえのよ。しかも冬ジイの場合、日本の陸海軍機のみならずアメリカやイギリス、ドイツの飛行機だって、およそプロペラ機ならどんな機体でもマニュアル無しで完璧に整備できるってバケモンなのさ。流石は戦争中に独立整備中隊でアタマ張ってただけのこたぁあるな」

「独立整備チュータイって?」


 ふと、気になって尋ねてみる。

 いや、俺もウチの爺様から聞いただけなんだがな、とタワシさんは前置きして、


「冬ジイが戦争中にビルマ戦線にいたってのは、孫なら知ってるだろう? そこで戦ってた日本陸軍航空隊の中に、腕っこきの整備兵ばかりを集めて集中的に整備を行う独立部隊があったんだよ。冬ジイは、その部隊で現場のトップだったんだ」

「初めて聞いた……」

「かつての陸軍航空隊じゃ機付きつけ制度ってのがあって、早い話が『一人の整備兵につき一機を専属で担当し、その機体の状態に関して責任を持つ』って感じかな。逆に言うなら整備兵の技量によって同じ機体でも性能がバラバラだったりしたんだが、独立整備中隊はその垣根を越えて、求められれば何処にでも出向いて最高の整備を行う。必然的にありとあらゆる機体の整備を手掛ける事になるから、そらぁ腕のいい連中でないと務まらねえわな」


 旋回のため僅かに操舵輪を回しながら、タワシさんは続ける。

 目の前に広がる甲府盆地の風景が僅かに傾き、ゆるゆると右から左へと移り変わっていく。


「陸軍に入った冬ジイは最初こそ二等整備兵って一番下っ端だったんだが、その腕を買われてビルマに行き、そこから叩き上げで独立整備中隊の現場トップまで上り詰めたんだ。その頃の冬ジイの活躍を知ってる爺さんに話を聞いた事があるが、換えの部品なんか何処にも無いから墜落した敵の機体から剥がしてきたり、まったく別の機体からでっち上げたり、挙句の果てにゃ部品ガメてる味方から強奪してきたりで、そりゃもう凄かったらしいぜ?」

「……昔からそういう事やってたんだ、お爺ちゃん」

「へへ、そんだけ君らの爺ちゃんは腕がいいって事さ。としも齢なんで昔ほど多くの機体を手掛けられないみたいだが、今でも日本の飛行機屋はみんな冬ジイに整備をやって貰いたいって思ってるよ。こいつのオーバーホールを受けて貰えた俺はラッキーだったぜ。

 ──っと、地蔵ヶ岳じぞうがだけの上に着いたぞ。このままここで旋回を続ければいいんだな?」

「ええ、この辺りでしばらく周回して貰えますか」


 肩越しに振り返って確認するタワシさんに、周囲を見渡したらしい美春の声が続いた。秋穂も再び双眼鏡を目に当てて、残雪の南アルプスをバックにぽつんと浮かぶ赤い機体を見る。


「こんなに近くて大丈夫かい。夏海ちゃんにゃバレないようにしたいんだろう?」

「ふふっ、あの子たぶん目の前のことに集中しきりで、こちらには気付かないんじゃないかしら」


 身軽な動作で操縦席の脇をすり抜け、美春が機首部に下りてきた。

 秋穂の肩に後ろから手を乗せ、そっと耳元に顔を寄せる。


「どう、見える?」


 秋穂は双眼鏡を手渡しながら、左手の平を広げてステラの方角を指し示した。

 双眼鏡越しにステラの飛行する姿を確認した美春は、やがて満足そうに頷く。


「───うん、今のところは順調そうね。しばらくここで見守っていましょうか」

「夏ねえ、大丈夫かな。あれを成功させるのって相当難しいと思うんだけど……」


 ふわふわ暢気に飛んでいく赤い機体に、秋穂は心配しきりだった。何しろ次姉は今回の仕事がどういうものなのか、まだ知らされてはいないのだ。

 そんな末妹を落ち着かせるような穏やかな声で、美春は言った。


「大丈夫大丈夫……のんびりお手並拝見といきましょう」

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