3-4

 空は、雲ひとつ無い快晴である。


 今日になって乾燥した北風が吹き込んできたために、甲府盆地の湿度は低く、上空の視程は無限大となっていた。


 わずかな霞もない空の只中を、ステラは大きく旋回しながら少しずつ高度を稼いでいく。

 今回の仕事で回収地点となっている南アルプスの稜線は、玉幡飛行場からの距離こそ近いものの高度差が大きく、離陸後にそのまま回収地点の標高二九〇〇メートルまで上昇しようとすると極めて急な上昇角を取らなければならない。エンジンパワーに余裕が無く風に煽られやすいステラにとっては少しばかり危険な操作になってしまう。

 そこで今回は、飛行場の上空で螺旋を描くように旋回しながら徐々に高度を稼ぐ方法が採られていた。


 上昇開始から、およそ十五分。


「ぶぇ~~~~~っくしょい!」


 機内に吹き込んでくる隙間風は氷のような冷たさになっていた。

 首筋をひやりと撫でられた夏海は、思わず女子高生にあるまじきくしゃみをしてしまう。


「う~~~ 出発前にトイレ済ませてきて良かった……」


 背筋をぞくぞくと奮わせながら、夏海はそんな事を考えている。

 ステラの機内には暖房設備など影も形も無い。元々が大戦機である上にそれほど高々度を飛ぶ機体ではないため、寒ければ人間の方で防寒具を着込むなり何なりしろ、というマッチョな仕様なんである。

 このあたりレストアした冬次郎にもこだわりがあるらしく、おかげで夏海は頭のてっぺんから足の先までぶくぶくと着ぶくれた雪ダルマのような有様となっていた。


「せめて後ろの穴ぼこが無ければ、少しは暖まることもできるんだけどなあ……」


 今回のステラは後席二つぶんを丸々取り外し、がらんどうになったそこに大きなウインチが載せられていた。

 さらに、後席足元の外板が外されて頭が入る位の穴が開いており、ウインチから延ばされたワイヤーが幾つかの滑車を経て、その穴から機外へと垂れている。

 てっきり機内の調整は不要だと思っていたのに、これは予想外だった。


 予想外といえば、操縦席の左側に付けられたレバーもそうだ。こんなもの今まで一度として見た事がない。

 これを取り付けた祖父に聞くと、レバーを引けば胴体後部から着艦フックが下りるのだという。


〝三式連絡機にはな、陸軍空母〈秋津丸あきつまる〉で艦載機として使うために着艦装備をもった機体もあったんだよ。こいつはそれを参考に、ワシが作った特別製だ〟


 ……やっぱりよく判らない。山のてっぺんに飛行甲板みたいなのが設えられていて、そこにこれを使って着陸しろというのだろうか。

 その辺りの説明を求めても、祖父も姉もにやにや笑うばかりで一向に教えてくれなかったのだ。


「うわ~、建物ちっちゃ」


 眼下の飛行場はずいぶんと小さくなっている。

 駐機場に並んでいる貨物機の群れも、その前に建つ五棟の格納庫も、飛行場の周囲にある家屋やビルまで、全てが小指の爪の先で隠れる程度の大きさになっている。

 最近はこの高度まで上がる事が滅多に無くなった夏海としては、眼下に広がる甲府盆地の風景は新鮮な驚きに満ちていた。


 夏海は操縦桿の送信ボタンを押し込むと、ターミナルビルの屋上からこちらを見上げているはずの秋穂に呼びかけた。


「こちらステラ11。アキー、聞こえるー?」

『こちら地上班の秋穂です。夏ねえ、どんな感じ?』


 昨日、半日をかけて陸生と調整を繰り返した無線機は絶好調だった。

 いつもよりクリアに聞こえる気がする秋穂の声に、夏海は笑みを浮かべながら周囲を見渡した。


「寒い」

『いやそれは判ってるから。そろそろ目標高度に着くと思うけど、ステラの調子は?』

「高度三〇〇〇メートルに───はい、今着いた。機体に異状は全く無し。あと寒い」

『そんなに寒いなら焚き火でもしてあったまれば? 羽布張りだから大きな焚き火が出来るよ』


 ……無線機から聞こえてくる秋穂の声が冷たい。

 クリアに聞こえる分いつもの三割増しといったところだ。


『目標高度に着いたなら、そのまま真東に針路を取って。正面に三つ山が見えてくるから、その真ん中と右端の山の間にある稜線上が回収地点ね』

「りょ~かい。針路二七〇に転進します」


 夏海は静かに機体を左に傾けると、操縦桿を僅かに引いて緩やかな左旋回に乗せた。右ペダルを少しだけ踏み込み、高度が落ちないように補正する。

 斜めになった世界が、ゆっくりと視界の左上から右下に向けて流れていく。

 やがて、稜線上を残雪で白く染めた南アルプスの山並みが前方の視界一杯に広がった。夏海は徐々に操縦桿を戻して水平飛行へと復帰する。


「二七〇、定針。おー、確かに三つ尖った山が見える。あの一番右と真ん中の山のあいだ、でいいの?」

『そう。右から順番に、北岳、間ノ岳あいのだけ農鳥岳のうとりだけって名前がついてて、三つの山を合わせて白峰三山しらねさんざんって呼ばれてる。どれも三〇〇〇メートルを超える標高があるから、今の高度を飛んでるうちは出来る限り近付かないで。今日は北寄りの風が吹いてるから、南の風下側はロールケーキみたいに気流が上下に渦を巻いてる。不用意に近付いたら山肌に引き込まれるよ』

「怖い事をおっしゃる……」

『それと言い忘れてたけど、白峰三山の近くまで行ったらこっちと無線が繋がらなくなると思うから。白峰三山の東側には二七〇〇メートル級の高さがある鳳凰三山ほうおうさんざんが連なってて、玉幡からじゃ電波が遮られちゃうの』


 夏海の独り言に被さるように秋穂の説明が聞こえてきて、危うく聞き逃しそうになる。


「あれ? てことは、今回はアキのサポートは無し?」

『うん。代わりに山小屋の人が地上から夏ねえのサポートをしてくれる事になってるから、回収地点に近付いたら次の周波数で呼びかけてみて。いい、メモしてよ?』


 夏海は胸ポケットからボールペンを取り出して、右の太股へバンドで留めたメモ帳に無線から聞こえる五桁の数字を書き留めた。

 念のために一文字ずつ読み上げ、数字に間違いがない事を確認する。


「───はい、オッケー。にしても、その山小屋の人って地上支援できる人なの? 何も知らない人なら誘導も何もあったもんじゃないと思うけど」

『春ねえの話だと、前から何度も依頼してきてるらしいから、多分こういう仕事にも慣れてる人だと思うよ』

「多分、ねえ……」

『とにかく、いい夏ねえ? 山地帯は地形が複雑だから、その上空ではどこからどんな強さの風が吹いてくるか判らない。特に今回みたいな山肌ギリギリの低空飛行だと、地面近くの突風がそのまま機体に吹き付けてくる。そちらで地上の風景を見て風向きを予測しながら、適切に操縦していかなきゃすぐに煽られて地面に真っ逆さまだよ』


 無線を通して聞こえてくる秋穂の言葉は、機体を操りながら無線を聞いているこちらの集中力に合わせているのか、いつも判りやすくまとめられている。

 妹は、基本的に頭がすごく良い。姉も驚異的に頭の回る人なので、真ん中の自分だけが頭の良さを受け継がなかったのかも知れない。


 おかげで、察しが悪い自分にも今回の仕事で待ち受ける困難さが伝わってきた。

 夏海は操縦桿を握りしめ、大きく深呼吸する。高度三〇〇〇メートルの冷たい大気が鼻の奥を刺し、吐く息が細かく震える。

 深呼吸の音が聞こえた訳ではないだろうが、秋穂が見透かしたように言った。


『とりあえず、落ち着いてやれば夏ねえなら上手くできるはずだから。地形をよく見れば、風がどの方向からどんな感じに吹いてくるのか見極められるはずだよ。こないだの薬剤散布の時のことを思い出して。風向きと、風の強さと、自分が行きたい方向のバランスを取れば後は簡単だから』

「風向きと、風の強さと……」

『それじゃ、夏ねえが仕事終わらせて帰ってくるのを待ってるから……夏ねえ』


 一拍置いて、秋穂が名前を呼んでくる。

 ヘッドセットのスピーカーを耳に押しつけた夏海に、秋穂は静かに言った。


『……頑張って!』


 それきり無線が切れた。

 夏海はもう一度胸一杯に深呼吸すると、前方に広がる残雪の南アルプスを睨む。

 さっき感じた緊張は、不思議とどこかに消え去っていた。


「───じゃあ、行きますか!!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る