1-5

 三階建てのターミナルビルを最上階まで昇り、中央近くのガラス戸を開けてバルコニーに出ると、さらに屋上まで続く外部階段がある。


 最後の一段を昇って屋上に立った瞬間、美春の長い髪がフワリ、と風に流れた。


 ――北北西の風、風力は秒速三メートルって所かしら。


 雲一つ無い空を見上げながら、額にかかった髪をかき上げる。

 大気は澄み切って霞みひとつなく、視程はほぼ無限大。放射冷却で空気密度も濃く、これなら十分な揚力を翼にため込むことができるだろう。

 絶好の飛行条件だった。


 誰が最初に名付けたか『展望デッキ』と恥ずかしげもなく呼ばれているそこは、どこから持ってきたのかも分からない飲料メーカーのロゴが描かれたベンチが二つに、エンジンオイルの一斗缶をぶった切った灰皿が一つ置かれただけの、屋根も何もない吹きさらしの場所である。


 いつもは昼飯を食った飛行場関係者がベンチで昼寝を決め込んでいたりする場所だが、今日は珍しく誰もいない。

 吸い殻で一杯になった一斗缶を片付けたい衝動に駆られながら、美春はその脇を通ってフェンスの際に立った。


 眼下の駐機場には、単発機と双発機がそれぞれ三機ずつ駐機してあった。いずれも、この玉幡を拠点とする自営業者の機体だ。

 本当なら、この時間は出発便と到着便がひっきりなしに出入りする頃合で、駐機場にはもっと多くの機体が翼を休め、その間を縫うように貨物パレットをひいた何十台というトラクターが行き交っているはずだった。


 でも、今日だけは特別。ステラエアサービス専属パイロットとしての初フライトを、あの子には何の不安もなく楽しんで欲しかった。

 美春の視線の先には、ひときわ目立つ赤い機体が今まさにタキシングをはじめようとしているところだった。

 駐機場の端までゆっくりと進んだステラが、滑走路の南へとぎこちなく機首を巡らせる。


 ――ちょっとペダルの踏み込みが遅いかな。ステラにはステアリング機構がないんだから、地上では早め早めに操作しなきゃ。


 初めて操る機体に悪戦苦闘している夏海の姿が目に浮かぶようだ。

 不安がない、といえば嘘になる。

 あの元気の塊のような妹が、父の死後ほどなくしてパイロットの夢を語ったとき、美春の心中にはそれを諫めようとする気持ちが確かにあった。

 一番下の妹が生まれてすぐに母が去ってから、母の代わりとなって二人の妹を見守り続けた美春にとって、父は自分が頼ることのできる唯一の存在だったのだ。


 その父を奪い去った空に、いつかまた妹も奪われてしまうかもしれない。

 だがそれとともに、どんな困難があろうとも妹はその道をまっとうするため力の限りを尽くそうとすることも、美春はわかっていたのだ。

 自分にパイロットとしての夢を語ったあの日、夏海の瞳のなかに動かしがたい決意の光が瞬いていることを、彼女は誰よりもはっきりと見て取ったのである。


 何故なら、かつての自分がそうだったのだから。


 あの日から、美春の夢は妹の夢の成就へと変わった。

 父が人生をかけたこの大空を、いつの日か家族みんなで飛ぶことが、美春の夢となった。


 このステラエアサービスというちっぽけな会社は、そんな天羽家の夢を乗せた小さな箱船。

 この先、家族の誰かが自分の立ち位置を見失ったとしても、夢への行先をしっかりと指し示す道標として作った会社なのだ。


 もしかしたら私は、あの子に自分が果たせなかった夢を押しつけているだけなのかもしれない。

 雲の彼方に父が消えたあの日、自分が永遠に封印してしまった大空への夢を。


 今までに何度も悩み、ついに答えのでなかった自分への問いかけに、あの子はどんな解答を見せてくれるんだろう?

 楽しみでもあり、不安でもある。

 でもあの子なら、いつでも飄々ひょうひょうとしていた父さんにどこかよく似ているあの子なら、きっと確かな答えを見つけてくれるはず。

 それまでは、あの子の帰る場所を守りながら待っていようと思う。

 例え分厚い積雲の上にいても、はっきりとわかるくらいあたたかな、私達の家を。



 ステラが滑走路の端にたどりつく。

 機内の夏海が、こちらの方を向いて手を振っている。


 ――もう、あの子ったら。


 美春は苦笑した。軽く手を振り返す。

 ずいぶんと余裕があるじゃない。もうちょっと飛ぶことに集中しないと駄目よ。


 エンジン音が急激に高まる。

 滑走路を蹴りつけるように、ステラが走り出した。みるみるうちに速度が上がり、美春は知らぬ間につぶやきはじめる。


「……V1…………VR…………」


 その時、ステラの尾翼がバネのように跳ね上がった。

 一瞬、息を呑む。


「───ッ!」


 短距離離着陸性能を極限まで追求したステラは、他の機体とくらべて揚力の発生が急激なのだ。おそらく、夏海はこれまで乗ってきた練習機と同じような感覚で操ろうとしていたのだろう。

 美春は脳裏で叫ぶ。


 ――操縦桿スティックを引きなさい!


 プロペラが地面に接触するギリギリで耐える。

 つんのめるように前に傾いたまましばらく滑走し、やがてゆるゆると水平へと戻った。何とか機体を立て直したようだ。

 ホッとする間もなく、ステラはふわり、と空に浮かび上がる。まるで空気の上に乗るような、そんなあっけない離陸だった。


 ――楽しんできなさい、なっちゃん。


 遠ざかるステラの姿を目で追いながら、美春は静かに語りかけた。


 これが、あなたの夢の、私たち家族の夢の第一歩。

 どこまでも遠く、どこまでも高く、その翼で飛んでいきなさい。父さんが残してくれたその翼は、きっと貴方を守ってくれるから。

 これまで経験したことのない色んな世界に、貴方を連れて行ってくれるから。


 透き通った冬の大気の中を、緋色の翼は北の空に向けてまっすぐに飛んでいく。

 あの日、自分が失ってしまった世界を、夏海は喜びのまま自由に駆け抜けていく。


 今頃、機内の夏海は快哉を叫んでいるに違いない。

 その姿を脳裏に浮かべ、美春は妹へのかすかな羨望とともにつぶやいた。


「……行ってらっしゃい」


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