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 陽光きらめく釜無川の水面にそって、ステラはぐんぐんと上昇していく。


 すでにフラップは畳んでいるが、揚力が落ち込む様子はない。

 速度は全然遅いはずなのに、離陸した時の角度を保ったまま、ステラは何の変化もなく上昇を続けていた。


「……すごい………!」


 今まで乗ってきたどんな機体とも、飛行感覚がまるで違う。雲に乗っている感覚とはこういうのをいうんだろうか。

 これまでの機体は、エンジンの力にまかせて無理矢理飛ばしている感覚に対して、このステラは元々浮いている翼をエンジンが軽く引っ張っていってる感じがする。

 例えていうなら、これまでの機体は坂道をぐいぐいと上っていくオートバイで、ステラはゆるやかな坂道をのんびり下っていく自転車、みたいな。


 幸いにも、エンジンは快調そのものだった。機体も問題はまったくない。

 格納庫の裏で雨に打たれてぼろぼろだった頃の姿を知っているだけに、それをここまで直した祖父の整備の腕前は相当なものだと思う。

 それでもかなりの手間がかかったはずで、祖父やレストアを手伝っていた陸生に、改めて頭が下がる思いだった。


 眼下には釜無川と、堤防上を走る県道二〇号線がまっすぐ進行方向に向かって伸びている。走っている車と比べてみても、それほど自分が速く感じられない。

 それもそのはず、対気速度計を見てみるとわずか一〇〇㎞/hしか出ていなかった。一般道を走る車のスピードに若干上乗せした程度だ。


 釜無川を横切る信玄橋しんげんばしを飛びこえ、右手の河原に信玄堤しんげんづつみの特徴的な木組みがぽつぽつ見えてくる頃には、ようやく高度が五〇〇mを超える程度になっていた。


「……これだとちょっと足らない、かな?」


 信玄堤から韮崎市役所までは、直線距離で約七㎞程しかない。ここから高度一〇〇〇mに達するには、それなりの上昇角を取らねばならなかった。


「玉幡飛行管制コントロール、こちらステラ11。これより高度一〇〇〇に向けて一気に上昇します。許可をください」

『ステラ11、こちら玉幡コントロール。上昇率が悪いようですね。何かトラブルが?』

「あ、あれ?」


 さっきの管制塔の女性と同じ声だった。

 通常、離陸する飛行機の管制業務は、離陸直後に管制塔から出発管制の別の人間に引き継がれる。同じ管制官が管制塔業務から出発管制まで担当しているというのは異例だった。


「あの、地上管制グランドだけじゃなく飛行管制も同じ人がやってるんですか?」


『今日は、この時間に玉幡周辺を飛んでいるのは貴方しかいませんから。一人でつきっきりで行った方が効率的によいという判断です。それで、機体に問題はありませんか?』


 ということは、着陸までこの人がずっと管制してくれるのか。ちょっとだけ嬉しい。


「いえ、初めての機体なので様子を見ながら飛ばしてました。トラブルは何もありません」

『そうですか、そういう時は必ず管制に申告してください。こちらではレーダー画面が見られるだけで、機体の異状の有無が確認できませんから』


 ……怒られてしまった。

 でも、自分の飛行をしっかりとチェックしてくれているのだ。どこか気恥ずかしく思うと共に、下手な飛行はできないなあ、と気を引き締める。


『ステラ11、現在の高度からの上昇を許可します。高度一〇〇〇到達後に申告を』

「ステラ11、了解!」


 夏海はスロットルを一杯まで開くと、ぐいっと操縦桿を引きつけた。

 エンジンの爆音が高まり、機首がぐんっと上を向く。前のガラスに映るのは藍色に近い冬の空しかない。


「おおーっ、ちゃんと昇ってる昇ってる」


 気圧高度計の針が眠たげに回るのを見ながら、実はちょっとだけ心配だった夏海は喜んだ。少なくとも飛ぶだけなら問題はなさそう。

 姿勢指示計で機体の傾きをチェックしつつ、ちょこちょこ操縦桿で姿勢を修正しながら上昇を続ける。


 風の影響によって姿勢が変化するのはいつものことだが、このステラは他と較べて横風の影響を受けやすいようだ。

 姿勢指示計の中の機体マークがふらふらと頼りなく左右に傾き続け、操縦桿の修正が忙しい。修正をすればするほど、あおりを食って振れ幅が大きくなっていく気がする。


「わわっ、わっ、ちょっと!」


 揺れる揺れる。右に傾いたと思ったらすぐ左に。そしてまた右に。

 その度に操縦桿で修正を加えるが、次の瞬間には振り子のように機体が跳ね戻って前よりも大きくロールしてしまう。

 夏海は冷や汗をかきながら、何とか機体を立て直すために必死で操縦桿を操り続けた。


「おわわわっ! あわわわわっ!?」


 一度といわず何度も横転に近い角度まで傾く。高度計の針は呆れるほどゆっくりとしか上っていかない。

 何とか高度一〇〇〇に到達して、水平飛行に移った時には全身が汗みずくになっていた。

 途端に、それまで暴れ馬のようだった機体がぴたりと安定する。

 肩で息をしながらも、夏海は気付いたことがあった。


「そ、そうか……翼の……面積が……大きいから……!!」


 機体の自重を翼の面積で割った数値を、翼面加重という。一般的にこの数値が低ければ低いほど、低速で飛んだ時の安定性や運動性が高くなる。


 三式連絡機は、自重一一一〇㎏に対して翼面積が二九・四㎡あり、翼面加重は三七・七五㎏/㎡。

 これは旧陸海軍機の中でも飛び抜けて低い数字で、それだけ三式連絡機の翼面積が機体重量に対して大きいことが判る。


 三式連絡機は、最前線での連絡任務や砲兵の着弾観測、負傷兵の輸送など、いわば『空のタクシー』として便利に使えるように設計された機体だった。

 荒れた野原でも離着陸できるようにするには高い短距離離着陸STOL性能が必要で、そのためには低速でも安定して飛行できる能力が必須となる。

 三式連絡機は機体の重さや大きさに対して極端に大きな主翼を持たせ、低速での飛行安定性を追求した機体なのである。


 一方で、翼面加重が低いことはいくつか弊害もある。

 そのうちの一つが、風の影響を非常に受けやすくなることだ。大きすぎる翼を持つために、角度を考えて飛ばさないと翼が風にあおられ、機体が不安定になりやすいのである。


「つまり、さっきは機首が急な角度で上を向いていたから……翼面に横風が真っ直ぐ当たって不安定になったんだ……だから水平飛行になったら安定した……なるほどなるほど……」


 ぶつぶつと呟きながら、頭の中でイメージしているのは風車である。

 風車は、風向きに対して寝かせるとうまく回らないが、垂直に立てると一番よく回る。つまりはそういうことなのだ、うん。


「………………………おもしろい」


 お腹の底から、じわじわと痺れるような震えが昇ってくる。背中から肩へ、そして首筋へ。

 口元まで震えがせり上がってきて、ついに夏海は爆発した。


「アッハハハハ、面白いおもしろいおもしろい! 何この子、こんな飛び方するの!? いやーまさかそうくるとは思わなかったわ。すごいすごい、超楽しい!!」


 恐怖心がないわけではない。

 それよりも、こんな機体を操っていることの方が何倍も楽しかった。

 どんな機体にも、その内で操っている限りは大人しく飛んでいるという一定の枠があるものだ。その枠から少しでもはみ出すと、途端にその性格が豹変する。ちゃんと正しく操縦してくれ、と駄々っ子のように暴れ回る。


 おそらく、このステラは誰でも簡単に操れるくらい、懐の大きな機体なのだ。新米飛行士である自分が、初めて乗る機体なのにここまで飛んでこれたことでも判る。

 でも、夏海としてはそれが少しばかり不満ではあった。

 そりゃあ事故無く安全に飛ばせたらそれに越したことはないけれど、やっぱり少しは挑戦心がかき立てられるくらいの方が飛行士冥利に尽きるってものだ。

 ……要は、面倒くさい女なのである。


「玉幡コントロール、こちらステラ11! 高度一〇〇〇に到達、異常なし!!」

『……了解、ステラ11。そのまま韮崎の第一転回点まで飛行してください』


 夏海の元気すぎる声音に、きっと怪訝な顔を浮かべているのだろう。

 それを思って、夏海はまた少し笑ってしまいそうになる。


 前方には雪化粧した八ヶ岳と、そこから伸びるなだらかな裾野が見えた。

 右の側方窓から眼下を見下ろすと、色とりどりの車が行き交う中央自動車道が、その手前に黒い架線がいかめしい中央本線が一筆書きのように真っ直ぐ走っている。

 ちょうど小さな駅から列車がゆっくりと発車するところで、あの辺りが塩崎駅しおざきえきか、と当たりをつけた。


 塩崎を過ぎるとまもなく韮崎の市街地上空だ。

 窓に張り付くように顔を寄せて、機首の下に隠れた前下方を確かめると、果たして釜無川と塩川の二つの川に挟まれるように広がる韮崎の市街地が見えた。

 中心部は小高い丘になっていて、その頂上に遠くからでもよく分かる純白の大きな観音像が建っている。


 夏海は、あの観音像を旋回の目標とすることに決めた。ニーボードに留めたメモ書きをなぞって、この後の飛行ルートを確かめる。

 通話ボタンをON。


「玉幡コントロールへ。第一目標の韮崎に到達。これより右に旋回します」


 今度は煽られないように、風の調子を見ながらそっと機体を傾かせる。

 操縦桿をわずかに引きながらラダーペダルを右へ踏み込み、夏海はステラをゆるやかな右旋回へと乗せた。


 観音像の足下に、小型犬を連れた家族連れがいる。

 小さな男の子が犬に引っ張られるように散歩していて、その後ろからお父さんとお母さんらしい大人が二人、連れだって歩いている。

 上空を旋回するステラに気付いたらしい。三人は揃って上空を見上げた。


「あはは、おーい。お騒がせしてまーす」


 観音像の周囲を右主翼の先端でなぞるように旋回しながら、夏海は空いている左手を軽く振った。

 それに気付いたか気付かなかったか、男の子はこちらに向かって大きく手を振っている。急に後ろへ引っ張られた犬がコテンとこけて、毛玉のように路上を転がるのが見ていて面白かった。


 韮崎の市街地上空で大きく右旋回したステラは、山肌をかすめるように機首を西南西へ向けて水平飛行に移った。


「玉幡、こちらステラ11、右旋回終了、方位ヘディング一〇〇度で定針。これより甲府北方を通過して次の目標へと向かいます。現在のところ異状ありません」

『玉幡コントロール、了解。以降も気をつけて飛行を続けてください』


 コースはここから甲府盆地の北の端に沿って、真っ直ぐ勝沼へと向かうことになる。

 目指す勝沼は、現在地点から約二五キロメートル先。大月地峡の山梨側の入り口、笹子峠の山裾にある。


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