1-7


「どうでえ、夏海の調子は?」


 玉幡飛行場、ターミナルビル屋上。

 周辺に高い建築物が無いために、展望デッキからは甲府盆地の空のすべてを見渡すことができる。

 陸生を連れて展望デッキへと上がってきた冬次郎は、そこで軍用双眼鏡を手に空を眺めていた美春へ声をかけた。


「大丈夫。さっき、ちょっとだけおろしに煽られてたみたいだけど、うまく立て直したみたい」

「はん。この程度の風で流されてるようじゃまだまだだな」


 美春から双眼鏡を受け取った冬次郎は、北の空に向けて両手で構えた。ダイヤルを回してピントを合わせる。

 はっきりした視野の左隅に、東へと飛んでいくステラの姿が見えた。冬次郎の視界を左から右へと横切るように、赤い機体がゆっくりと動いている。


 今、夏海の目には前方に駱駝らくだが寝そべっているような大蔵経寺山だいぞうきょうじやまの山塊が見えているはずだ。韮崎から勝沼へ直線ルートを取るには、どうしてもこの山を飛び越えなければならない。


 甲府盆地は上空から見るとM字形をしていて、奥秩父山地から長く伸びた尾根が盆地の中央部に裾を落としている。

 大蔵経寺山は尾根の先端にわずかに突き出た低山で、頂上あたりの白っぽい岩壁が上空を飛ぶ航空機の良い目標となっていた。


「いくら高度差が三〇〇mあっても、尾根を飛び越える時にゃ上昇気流で多少なりと振られるもんだ。ビビらずにいけるか……?」


 ステラは何の躊躇もなく、大蔵経寺山の上空へ真っ直ぐに飛んでいく。一〇〇㎞/hの巡航速度だと、この距離で見るとまるで風に流される風船のように頼りなく見える。


 尾根を飛び越えようとしたその瞬間、ふらり、と両翼が揺れた。

 山地では、地面近くを這うように流れていた風が山の斜面を駆け上ってきて、上空の気流を複雑に乱してしまう。ステラはそんな山地特有の上昇気流に捕まったのだ。


 だが、それだけだった。

 すぐに動揺を収めると、ステラは何事もなかったように飛行を続けている。


「フフン。流石にこの程度じゃビビらねえか」

「そりゃあそうよ。事業免許取るまで何度も練習機で甲府の空を飛んできたんだから。この辺りの空なら、あの子だってしっかり頭に入ってるはずよ」

「あいつが乗り回してた練習機ってのは、組合が持ってる二式高等練習機キー79だったか?」

「そう。でも、どちらかというならもう一機の四式基本練習機ユングマンの方が好みだったみたいだけど」

「おお、ありゃいい機体だぜ。性格が素直でな、どんな奴だって五時間も乗せりゃ、羽根が生えたみてえに飛ばせたもんだ」

「冬ジイ、ユングマンってそんなにいい機体なの?」


 眠気で足元もおぼつかない癖に、陸生は健気に尋ねてくる。

 手は遅いわ体力が無いわすぐに口答えするわで生意気な小僧ッ子だが、厳しい指導にもめげず真面目に航空整備士を目指そうという気合いだけは一人前だった。そういう所が気に入って、冬次郎は陸生を自分の弟子としているのだ。


「ちっと馬力が足りねえから上昇力はねえがな。いい具合に機体のバランスが取れてる上に失速速度が低いから、離着陸がすげぇ楽なんだよ。ビルマにいた頃にゃ、整備兵のワシも何度か飛ばしたことあるぜ」

「へーえ……じゃあステラよりも良い機体なのか」

「バッカおめえ、ありゃワシが手塩にかけて仕上げた機体だぞ。フレームを新しく組み直して強度を上げてるし、エンジンだってコンロッドの鏡面加工から気筒の圧縮比強化から吸排気口の研磨から……とにかく、やれるだけのことは全部ブチ込んでんだ。低速域での運動性にかけちゃ、そこらの単発機にゃ負けねえよ」


 ひとしきり笑ってから、冬次郎はボソリ、と続ける。


「……しかしまぁ、そこんとこをあのお転婆てんばが早く気付けるかどうか、だな」


 山を飛び越えたステラは、安定した飛行を続けている。

 まるで空中にレールでも敷かれているように、高度を一定に保ちながら勝沼に向かう針路を突き進んでいた。


 ――次の瞬間。


「……ん?」


 いきなりステラの姿勢が乱れた。

 急激な右ロール。風を引き剥がした翼が揚力を失い、機体が一気に沈み込む。

 二〇〇mばかり一気に高度を失ったステラだったが、何とか水平飛行に復帰した。失われた高度を回復するため、機首を上げて上昇姿勢に移る。


 しばらくそのままで上昇を続けるが、今度は機首を上げ過ぎたために再び石を落としたような降下を始めた。

 いわゆる失速降下である。


 見ている美春も陸生も気が気ではない。

 しかし、冬次郎の見方は違った。


「あのお転婆てんば、楽しんでやがんな……」

「……わかるの?」

「そりゃな。伊達にこの道で長年メシ食っちゃいねえよ。ありゃわざとやってやがんだ。機体の調子を確かめるためか、それとも単にはしゃいでるだけなのか。そいつはあの馬鹿自身に聞いてみねえとわからねえがな」


 美春は管制塔を振り仰いだ。

 遮光ガラスに六面を囲まれたそこは、こちらからだと光の具合で中の様子がはっきりとは見えない。しかし一人の管制官が、北の方角に向かって伸び上がるような姿勢で何か言っているのは影の動きで判る。

 おそらく、管制の許可無く危険な飛行をしたことに対してカミナリを落としているんだろう。ステラの機内で、夏海がペコペコ頭を下げているのが目に浮かぶようだ。


 ――まったくもう……。


 美春は苦笑する。初めて操る機体で何でも試してみたくなる気持ちは分かるけれど、あんまり周りのみんなをを心配させないでよね……。


 冬次郎が煙草に火をつけた。真上の空に紫煙を吐き出し、渦を描きながら昇っていく煙をぼんやり眺めている。

 ぽつりと、


「……お前の時はどうだった?」

「え?」

「いや。夏海みてえに、やっぱり初めての時ってのは舞い上がっちまったかと思ってな」

「…………ごめんなさい、覚えてない」


 ゆっくりと首を振る。自分にとっては遙かな過去に置いてきた思い出だった。

 冬次郎は足下の一斗缶に灰を落としながら、静かに含み笑いを漏らす。


「……ククッ……ワシは覚えてるぞ、そん時のことは。ワシは整備中でお前の様子は見えなかったが、芳朗の奴が格納庫に来てプリプリ怒ってやがんだ」

「お父さんが?」

「ああ。いい歳こいて、まるでガキみてえにな」


 少しずつ遠ざかっていくステラの姿は、もう芥子粒のように小さな点になっている。

 そちらの方角に顔を向けながら、冬次郎の目はどこか別の世界を見ているように茫洋としていた。


「『何て危ないことをしているんだ、心配している人間の身にもなってみろ。こんなことじゃ今晩のお祝いは無しだ!』

 ――なだめるのに苦労したぜ。何せ、ワシも久々にたらふく酒が飲めるチャンスだったからな。あの馬鹿息子の曲がったへそをどう直してやるか、必死で考えたもんさ」


 そして、美春の頭にポン、と手を乗せる。

 ごつごつとして、煙草臭くて、オイルが染みて真っ黒になった手。

 でも大きくて、温かくて……まるで、お父さんの手みたい。


「姉妹ってなあ、やっぱり似てやがんだな。こんだけ性格が違ってても、やっぱ姉妹ってのはどっか似てるとこがあるもんだ」

「……………うん」

「そんなに心配しねえでも大丈夫だよ。あいつはお前の妹だ。芳朗よしろうやお前みてえに、この先どんなことがあっても飄々ひょうひょうとしてやがるさ」


 コクリ、と頷く美春に笑みを返すと、冬次郎は両手を頭上で組んで大きく伸びをした。

 冬の青空の向こうへ溶け去ったように、ステラの赤い翼はすでに見えなくなっている。

 煙草を吹かしながらしばらくそちらの方角を眺めていた冬次郎は、やがて一斗缶に吸い殻を放り込み、凝り固まった腰をぐりぐりと回した。


「さ────て、ワシはもう帰るぞ。今晩は家であいつの商業初飛行の祝い、するんだろ?」

「そうね、私も今日の書類をまとめたら、すぐ家に帰るから。お爺ちゃんと陸生くんは先に帰って準備してて。一応昨日のうちにお料理してテーブルに出しておいたけど、足りないようなら仕出し屋さんに頼んでもいいから」

耕作こうさくんとこの店か? んじゃ食い物持ってこさせたら、なし崩しに飲み会参加させちまえ。野郎なら焼酎二杯で支払い忘れやがるから」

「もう、駄目よそんな無茶なことしたら……あら、陸生くん。そんなとこで寝たら冷えるわよ?」

「おら、陸生! 家にけえんぞ、しゃんとしろしゃんと!!」


 ベンチの上でぐでっとなった陸生の襟首を掴んで、冬次郎は階段へと引きずっていく。

 美春はもう一度、展望デッキを眺め回した。

 落ち着いて見てみると、ベンチには埃がうっすらと降り積もっているし、屋上の隅には誰が放置したのかコンビニ弁当の空箱が捨てられているし、荒れ放題なのが非常に気になる。


 やっぱりここも少し掃除しようかしら、一斗缶の吸い殻も一杯になってるし。

 それぞれの会社が持ち回りで、ここの掃除をするように組合に提案してみてもいいかも……。


 そんなことを考えながら、美春は大きすぎる軍用双眼鏡を胸に抱えるようにして、階段の方へと歩き出す。


 階下へつながる階段の手摺りを握り、美春は天を見上げた。

 かつて自分が住処すみかとし、そして今日から妹がその夢を預ける大空は、まるで宇宙の底まで手が届きそうなほどにどこまでも蒼く広がっていた。


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