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自家用操縦士免許は十三歳以上、事業用操縦士免許は十六歳以上。
世界的に見ても特異なほど、この国の航空機操縦免許の低年齢化が進んだことについて多くの理由があるが、どれも決定打に欠ける。
はっきりと判ることは、一九二一年に公布された最初の航空法ではすでにこの年齢が定められていたし、太平洋戦争後の一九五〇年に制定された新たな航空法でも特に改正されることなく、そのまま持ち越されたことだ。
それについて誰も疑問には思わない程度に、この国で飛行機は身近な存在であり続けた。
四方を海に囲まれ、国土が多くの島々によって成り立っているこの国では、飛行機は自動車や鉄道以上に適切な交通手段であるとして、政府は莫大な資金と長い年月をかけて航空産業を育成しつづけた。
その後、国内の道路網が整備され、全国あらゆる所に鉄道が敷かれるようになってもなお、飛行機は第四の輸送手段として人々の日常風景の中にあり続けたのである。
現在、日本国内の飛行場は大小あわせて二〇〇ヵ所あまり。
その多くが、モーターリゼーションの大波にあらがいながら腕一本で日々の糧を稼ぎつづける、自営空輸業者たちが拠点とする飛行場であった。
そして、ここもそんな飛行場の一つ。
甲府盆地のほぼ中央、
かつては陸軍の飛行場が置かれていたこの場所が自営飛行業者の巣となったのは、昭和二十年九月十五日の太平洋戦争終結以降のことだ。
終戦直前の一ヶ月間にわたって行われたアメリカ軍の鉄道攻撃は、国内の交通路を完膚無きまでに叩き潰した。
特に首都圏と中京・関西方面を結ぶ東西連絡路、すなわち信越本線の碓氷峠、中央本線の笹子峠、東海道本線の丹那トンネルは、山体そのものが崩壊するほどの集中的な爆撃を受け、首都圏と地方を結ぶ陸路は完全に途絶してしまう。
陸路は閉ざされ、駿河湾以北の海を無数の機雷によって封鎖された首都圏に待っていたのは、深刻な食料不足だった。
その年の統計予測によれば、翌年末までにおよそ七〇万人もの膨大な餓死者が首都圏に発生すると推定されていた。
陸海共に封鎖されているのならば、残された道は空路しかない。
昭和二十一年春、
それにともない多くの旧軍搭乗員が輸送機パイロットへと転身を果たし、飢餓状態におちいった首都圏を救うための食糧輸送作戦を開始したのである。
そして玉幡飛行場は、首都圏への物資の発送拠点に生まれかわった。
甲信地方から首都圏へのルートは、今だ空爆の傷が癒えぬ笹子峠を飛びこえて真っ直ぐ東へと飛ぶのがもっとも早い。
しかしこのルート上には、米軍専用の拠点空港に指定されていた
そのためGHQは、航空路の交雑を防ぐために玉幡から南へと一旦進路を取り、富士山をまわって南西から首都圏へと至るルートを正規航空路として指定していた。
───頭が沸いてるのか、アメ公。
知らせを聞いた玉幡のパイロットたちは、誰もがそう思ったという。
日本最高峰、かつ最大の独立峰である富士山の周辺空域は、四季を問わず乱気流の巣である。
大量の物資を積み込んで飛行性能が低下し、しかも元より高空性能が不足した旧日本軍機にとって、そのルートはひとつ間違えば墜落へと直結するきわめて危険な航空路だった。
富士山南方の合法ルートと、大月地峡を通過する非合法ルート。
玉幡の飛行士たちは、この二つのルートを使い分けて首都圏への食糧輸送にあたった。
GHQの指令による正規の輸送任務には、ペイロード容積に余裕のある中・大型機を振りわけ、一機あたりの輸送量を少なくすることで飛行性能の低下をおさえつつ、気流が乱れる富士山ルートを飛行。
一方で、小回りは利くが輸送力の小さい小型機は、都内各所に対する小口輸送──すなわちヤミ食料の輸送を担当し、非合法の大月ルートを飛行する。
もとより食糧管理法に真っ向からケンカを売っているヤミ食料の輸送である。
ついこの間まで戦場で殴りあっていた相手からの指示など、今さら一つや二つ破ったところで何の
福生の防空レーダーをさけるため、笹子峠を越えた輸送機は一気に低空へと降下して、大月地峡の山腹に隠れながら東へと飛ぶ。関東平野に入るとわずかに南へと進路をそらし、多摩丘陵の南側を低空で飛んで都心へと到達するのだ。
監視の目を逃れるために深夜や悪天候を選んで飛行するため、パイロットにはきわめて高い熟練度が要求される。
しかしこの程度の危険など、かつて十二・七ミリ弾の嵐のような銃火やVT信管が作り上げる炎の壁をくぐり抜けてきた搭乗員たちにとって何ほどの事もなかった。
取締りの網を張った進駐軍や警察を向こうに回して、玉幡の飛行士たちは毎晩のように東京へと飛び続けた。
大月地峡の監視網が強化されたと知るや、裏をかいて北の秩父盆地から回り込むルートをとる。
防空レーダーの数が増えれば、その目をごまかすために囮機を出し、本命は超低空で突っ込ませる……。
当局との丁々発止の攻防を繰り広げながら、ただひたすらに東京へと食料を運び続ける玉幡の飛行士たちは、いつしか食糧難にあえぐ東京の人々から英雄として迎えられていく。
そして笹子峠の鉄道線が復旧し、食料輸送拠点としての玉幡の役割が終わった時。
彼らを指して空の義賊をもじった『
首都圏への食料輸送基地としての役目を終え、その後は全国規模での小口配送業務をおこなう自営空輸業者たちの拠点空港となった、県営玉幡飛行場。
県営とは聞こえはいいが、場内には救難航空隊の隊員の他、公務員はほとんどいない。飛行場の運営はすべて
玉幡飛行業組合は、ここを根城とする自営航空業者の協同組合である。
業者間の折衝や仕事の斡旋、各種の保険業務をはじめ、業者が保有する機体の整備代行や年一回の機体検査、組合保有機のレンタル、操縦士の教育など、およそこの飛行場に関するあらゆる業務を行っている。
そして、彼等はやたら無茶をする。
何しろ日本の空でも名うての荒くれ航空団として知られる玉幡の飛行士たち───〝
子分が後先考えぬ鉄砲玉なら、それを使う親もまた武闘派なのは世の道理なのだった。
例えば、玉幡飛行場の滑走路は釜無川に沿って南北一五〇〇メートルの長さに延びているが、その長さの割に路盤は異常に強化されていて、しかも耐熱一〇〇〇度を誇る特殊コンクリート舗装となっている。
こんなもの、アフターバーナーを装備したジェット戦闘機や
そして、これほどまでにオーバースペックなものを入れた最大の理由が「その方が面白いから」なのだから始末に負えない。
一応は「あらゆる航空機の緊急着陸に対応可能とするため」という理由が後付けされているが、そもそも一五〇〇メートルの長さしかない滑走路に軍用の大型ジェット機が着陸することなど通常時でも不可能なのである。語るに落ちるとはこのことだった。
そのくせ、飛行場の場内は非常に荒れている。
玉幡飛行場を拠点とする航空業者は、書類上では大小併せて八〇社あまり。
保有機一機の個人業者もいれば、複数の
それらの格納庫が、場内には所狭しと建ち並んでいる。
建築規格についてはまったく統一されておらず、高さも広さも外観もバラバラである。構造も鉄筋コンクリート造りのしっかりした建築物もあれば、プレハブ構造のもの、まるで自動車のガレージのようなインフレータブル構造のものまであった。
そして、それら格納庫の間には無数の飛行機のスクラップがひしめいていた。
形を保ったまま放置されているのはまだいい方で、エンジンが取り外されて放置された胴体、着陸に失敗して折れた主翼やその桁、部品取りされて無残な姿を晒している星型エンジンのシリンダーブロック、等々が恨めしげな鈍色の輝きを放ちながら打ち捨てられている。
これらをかき集めて組み合わせれば、二〇機くらいは飛べる機体がでっち上げられるのではないか、というのがもっぱらの噂だ。
ターミナルビルは管制塔と一体型のものがひとつ。
これがまた地方の運輸会社の社屋か、あるいは公立学校の校舎のような何の装飾もないセメント色の建物だったりする。
内部はほとんどが組合の事務室や会議室、倉庫で占められていて、一階の端に近所の老人達の茶飲み場所となっている小さな喫茶店がある他は、いかなる旅客設備もなかった。定期旅客路線がないために、外のお客に配慮する必要などどこにもないのだ。
この玉幡飛行場から定期路線をのばそうという計画は、県知事選挙がおこなわれると毎回俎上にのぼる話題だった。
だが首都圏から中途半端に近い地勢ゆえに採算性の目処がまったく立たず、一部の人々の熱意のわりにこの飛行場に乗り入れようとする航空会社はいまだひとつも現れてはいない。
帝国陸軍の航空基地からヤミ米の運び屋の根城を経て、国内各地への小口配送を業務とする自営空輸業者の拠点として生まれ変わった玉幡飛行場。
高度成長期の日本を空から支えつづけた玉幡飛行場は、今もなお甲信地方最大の空の輸送基地として機能しつづけている。
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